作者の蜜柑桜さんがヨーロッパに留学され、そこでさまざまな知識と教養を身につけてこられたことは、そのエッセイや物語からうかがい知ることができます。
しかし、その留学の裏では、これまで語ってこられなかった「名状しがたい」できごとが進行していたのです。
家族の体の変調は、それまで隠していたもの、隠れていたもの、本人たちも気づきもしなかったものを、容赦なく表に引き出してしまいます。
それによって揺れる家族、それぞれの気もち。
ヨーロッパに留学するというだけでもたいへんなのに、それに伴って、また並行して起こったさまざまなできごと…。
蜜柑桜さんの作品には、文章にも物語運びにも、ある種の端正さと気品が備わり、さらに、目立たないけれどしっかりした、厳格な倫理観が感じられます。
このエッセイを拝読して、その原点をうかがい知ることができた思いです。
また、ひとはなぜフィクションを書くか、という問いへの一つの回答でもあると思います。
これは作者様の実体験に基づくエッセイで、最愛のお父様をご病気で亡くされたという身につまされるようなお話です。もちろん愛する人との死別を扱うお話ですので、正直言って重いお話です。
長いこと生きていると、避けられないのが誰かとの死別。こればかりはどう足掻いても仕方がなく、これだけ発達した現代医療でも未だに無くすことはできていません。
誰しもがそうとわかってはいるのですが、しかし、一体どれくらいの人がそれを覚悟して日々生きているのでしょう。
いつか最愛の人とも別れる時がくる。でもその「いつか」はいつ来るのか誰にもわからない。別れが近いと気がついた時はもう、その終わりが見えてしまっている時なのです。
その時に「ああしておけば、こうしておけば」と後悔するのはある意味で仕方のないことなのでしょう。我々はそうして後悔して、別れてしまうその人を深く記憶に刻み込もうとするのかも知れません。
死別は悲しいことです。だけど、残された人はそれでも生きていかなければなりません。亡くなった方を憶えていられるのは、残された人だけだからです。
だから私は「後悔」してもいいと思うのです。その後悔は亡くなった方への想いそのものであり、悲しくて苦しいけれど、その分その人が大切だった証です。
私も数々の悲しい別れを経験して後悔しましたが、後悔もそう言う意味では悪いことばかりではないのかな、とこのエッセイを通して思うことができました。
そしてやっぱりこの先も、別れた人のことをときどき思い出して、生きていこうと前向きに思うことができました。
確かに重いエッセイですが、読後は前向きになれる素晴らしいお話です。
このエッセイを読んだ人が、大切だった人をより大切に思えますように。
楽しい時も辛い時も寄り添ってくれた大切な人。
これから一緒にやりたい事が沢山あった大切な人。
そんな人が、自分の名前すら忘れてしまったとしたら。
そして……そんな大切な人を、置いていかなくてはならないとしたら。
あなたはどうしますか。
・
「神は私たちを耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」と、有名な書物に載っていたが、
なぜ神様はこんなに厳しい試練ばかりを与えるのだろう、と思わせる人達がいる。
複雑な事情の中で、それでも必死につかみ取った稲穂を無情にも奪われるような、そんな心が冷える哀しみがあった。
それでも立ち上がる作者様の姿に希望を感じた。
「名状しがたい」という名前は正しい。この葛藤は、とても名状できるものではない。
つらいことや悲しいことが起きたとき、人は誰かに話さずにはいられません。しかし、内容が話しづらいものだった場合、親しい人に伝えることを躊躇してしまいます。
心の中にしまい続ける思いは、だんだんと身体をむしばんていくもの。沈黙を破った作者さまが語るのは、留学時の話でした。
異国での経験をもとにされた作者さまのエッセイや小説を、数多く読ませていただいていましたが、初めて知る経緯に惹き込まれていきました。
悔やみきれないこと、あがいても報われないこと。
目を逸らしたくなったり美化してしまいたくなったりすることも、飾らない言葉で綴られていて胸を打ちます。
読後に作品のキャッチコピーを再度見て、きっと心が洗われるはずです。
話すように軽やかな筆致で書かれたエッセイから、蜜柑桜さまの素晴らしい作品の世界へどっぷり浸かってみてください!