油彩画・夜明けのミモザ
最終話 夢が叶う日
置時計の秒針が、枕元で時を刻む。午前八時三十分。私は、ベッドから起き上がった。
リビングを
二月のパリは、
ほどなくして、レジの前に立った私が、店員の女性に「Bonjour(おはよう)」と挨拶すると、
――『澪ちゃん。私、幸せになったよ』
絢女先輩も、夢を叶えたのだ。大学の学食で、ナポリタンを食べながら語り合った日を回想しながら、続いて手紙を確認した。今度の差出人も、日本人だ。
その場で封を開けて、本文に目を通すうちに、笑みが零れた。小学校の先生になった
メールの差出人の名前は、
――『ミオ、ハナから聞いたわよ! おめでとう! こっちに戻ってくるときは、ぜひ連絡してね! ヤスヒコも、アマネも、アヤメも、みんな待ってるわよ!』
大好きになった人のことは、親しい間柄の人に、たくさん話したくなってしまう。どうやら私たちのことは、日本で知れ渡っているようだ。バゲットと郵便物と一緒に、くすぐったい気持ちも
さっきは閉まっていたカーテンが開いていて、空の水色にほんのりと染まった白い日差しが、暮らし始めて一年と半年ほどになるアトリエ兼リビングを、優しい光で満たしている。小ぶりで透明なシャンデリアが、
――今も、
「おはよう、彗」
「おはよう、澪」
こざっぱりとしたシャツとニット、絵具まみれのエプロンを身に着けた彗は、私を振り返って微笑んだ。けれど、私が
「パン屋なら、僕が行くって言ったのに」
「大丈夫だよ。今日は体調がいいから。ちゃんと身体も動かさないと」
「それなら、次は一緒に行こう。ここの階段は、今の澪にはきついから」
確かに私は、昨日まで家から動けなかった。私は、素直に「うん」と頷くと、テーブルにバゲットと郵便物を置いて、マフラーをほどいて、コートを脱いだ。
「
「そっか。
「私たちが式を挙げるときには、来てもらえたらいいな」
その頃には、新しい家族も増えているはずだ。まだ膨らみが目立たないお腹に手を当てていると、そっと後ろから抱き寄せられて、彗の膝の上に座らされた。私は、きょとんと彗を見上げた。
「どうしたの?」
「澪の夢を、叶えようと思って。僕が夢を叶えるところを、一番近くで見たいと言っていたから」
「えっ、もう完成したの?」
「ううん、まだだよ」
彗は、私を器用に
「あと、ひと筆で完成だ」
油絵具の甘い匂いが、ふわっと香った。それなのに、黄色を乗せた絵筆がキャンバスを優しく
私たちの目の前には、
夜明けを迎えた空の下で、グラウンドを囲うフェンスの
「油彩画に自分を
彗は、隣の椅子に絵筆とパレットを置いてから、
「じゃあ、どうして自分を
「澪を、
「……彗」
私は、彗を呼んだ。そして、彗の右腕の負担にならないように、身体を慎重によじってから、クリムトが『
「私を、見つけてくれて、ありがとう」
――夢が
そして、時を同じくして――彗が、日本のアトリエに帰ってきた。
――『待てなくなるのは、やっぱり僕が先だった』
画家としてフランスで独立した彗は、得意げな顔で言った。そして、まだ当面の間はフランスで絵画を学びたいという意思を私に伝えて、家族や友人たちへの挨拶回りを済ませると、私をフランスまで
「澪がいたから、叶えられた夢だよ」
彗は、私を抱きしめ返してから、右手をぎこちなく持ち上げて、私の頬に触れた。私の涙もろさは、あの別れの日から四年たっても治らない。泣き笑いの顔になった私に、彗も穏やかに
「この絵を持って、日本のアトリエに帰ろう」
「うん」
私たちは、もうすぐ日本に帰国する。大切なアトリエに帰ったら、私たちが愛した花を、新しい家族にも見せたいから。そのまま日本に骨を
「彗、そろそろ朝食にする? バゲットは、まだ温かいよ」
「そういえば、澪が高校を卒業したときも、二人でパン屋に行ったっけ」
「本当だ。懐かしいね」
ゆっくりと立ち上がった私たちは、完成したばかりの油彩画『夜明けのミモザ』を振り返る。そして、二人で笑い合ってから、日差しで明るいキッチンへ、肩を並べて歩き出した。
― 油彩画・夜明けのミモザ <了> ―
油彩画・夜明けのミモザ 一初ゆずこ @yuzuko
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