4-17 愛してる
彗の出国前夜のアトリエは、暖房の設定温度がずいぶん高かった。ステンドグラスを
「彗は、暑くない? 大丈夫?」
「うん。画家の僕は、適当に調節するから平気だよ」
鉛筆を削り終えた彗は、シャツのボタンを二つ外して、腕まくりをした。
「ヌードデッサンは、モデルの体調を最優先させるから」
普段通りの声音で告げられた
彗は、私のそばまで歩いてくると、キッチンの
「行こうか」
彗が、私の手を取った。私は、身体にバスタオルを巻いただけの
十月の午前四時に、高校のフェンス沿いのミモザの下で、画家として生きる夢を再び諦めないと決めた彗は、私に一つの頼みごとをした。
――『フランスに
彗が描きたいという私の絵は、今までのような生活のワンシーンを
それでも、やっぱり
――『僕だけのものにするから』
画家とモデルの関係は、恋愛関係に発展しやすいのだと、かつて彗が語った意味が、私にも分かった瞬間だった。甘い
彗は、私をクッション張りの出窓に座らせると、
「綺麗だ」
そして、目を開けたとき、私の恋人は画家に変わっていた。左腕で抱き寄せられて、出窓を背にして横向きに寝かされる間、普段よりも神経が
彗は、私の長い髪を左手で
「怖い?」
「……うん」
「いつでもやめるから、声を掛けて。今の僕が、一番恐れていることは、澪に嫌われることだから」
「ねえ、彗」
私は、小刻みに震える左手を、胸の前で持ち上げた。左手の薬指の輝きが、アトリエを照らす
「指輪は、つけたままでもいい?」
「……うん。そのほうが、僕も嬉しい」
彗は、穏やかに微笑んだ。私の右手をゆっくりと掴んで、金色の輝きを
「十五分ごとに、十分の休憩を挟むよ。でも、疲れたら言って」
「分かった」
鉛筆の漆黒が、真っ白なスケッチブックを
やがて、アトリエに射す月明かりの角度が変わって、春の夜風が出窓をカタカタと揺らしたとき、彗は、鉛筆をイーゼルに置いた。スケッチブックを眺めてから、私を出窓に
「これで、心残りはなくなったよ」
「私にも、見せて」
起き上がろうとしたけれど、ポーズを取り続けて固まった身体は、全然動いてくれなかった。出窓まで歩いてきた彗は、私の身体を毛布で
「僕だけのものにするって、言ったからね」
「ひどい。私はモデルなのに」
「澪は、水分補給をして待ってて。僕もシャワーを浴びたら、戻ってくるから」
彗は、画材を素早く片付けると、リビングからスケッチブックを持ち去った。私を
それからは、いつかのような長い夜を過ごした。私は聞き分けがない子どもみたいなわがままをたくさん言って、彗も私を決して離さなくて、この
「いってらっしゃい、彗」
「いってきます、澪」
そう声を掛け合ったけれど、私たちは動かなかった。窓から入る白い日差しは、
彗と二人で話し合って、見送りは家で済ませると決めていた。私が空港まで彗に付き添ってしまったら、私は彗を引き留めたくなってしまうし、彗は私を
「澪。身体には、気をつけて」
黒いコートを着た彗の隣には、大きなスーツケースが並んでいた。本当に、行ってしまうのだ。分かっているのに、覚悟だってしていたのに、抑えきれない涙が
笑顔で、送り出したかったのに。私は、彗と、離れたくない。
「私は……彗に、強い人だって言ってもらったけど、本当はまだ、全然強くないってこと、分かってるの」
頬を伝った涙が、ワンピースの胸元に落ちた。両手で顔を覆った私は、ジョージ・フレデリック・ワッツが『希望』で描いた
「行かないで」
「うん。僕も、行きたくない」
「ずっと、ここにいたいよ」
彗の右手が、硬い動きで持ち上がり、私の頬に触れた。温かい手のひらが、涙をぎこちなく
「待ってるから」
「迎えに行くから」
「待てなくなったら、追いかけるから」
「待てなくなるのは、僕が先だ」
油絵具の甘い匂いが、ふっと近づく。玄関を照らす陽光が、彗の身体で
いってらっしゃいも、いってきますも、もう二人で伝え合った。でも、さよならだけは言葉の形にしたくないから、私たちが今まで唯一、互いに掛け合ったことがない言葉を、お別れの言葉の代わりにした。
「愛してる、彗」
「愛してる、澪」
彗は、今日の日差しみたいな柔らかさで、
一人きりになった私は、油絵具の甘い
さあっ――と、春の風が吹き抜けて、私の長い髪を揺らしていく。私と彗が、夜明けの世界へ最初の一歩を踏み出したあの日のように、空は青く
モネの庭に佇むミモザの木は、まだ黄色の花が咲き誇っていた。孤独を
出会いと別れの季節を呼ぶ花の元へ、私は近づいて、椅子に座った。一年前の午前四時に、ここで一緒にホットチョコレートを飲んだ人は、もういない。
目を閉じると、
今日は、アリスの英会話教室の最終日だ。そのあとは『フーロン・デリ』のアルバイトも
椅子から立ち上がった私は、ガーデンテーブルに積もったミモザの花を、そっと左手で撫でてから、今日から一人で暮らす家の中へ、足早に戻っていった。
― 第4章 たとえ世界から希望が消えても <了> ―
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