3. 唯一の親友
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ガクン、と脚が跳ねて目が覚めた。ゆっくりと身を起こす。机に突っ伏して寝てしまったから、身体のあちこちが強張って痛い。私は大きなあくびと伸びをする。時計はすでにお昼前を指していた。頭を掻きながら立ち上がる。
あれ、昨日はお風呂入っ……て、ないか……。
ため息はシャワーで洗い流し、濡れた髪をタオルで巻いて適当な食事を作る。冷凍してあった米と、塩胡椒で味つけした卵焼き。毎食同じものを食べている気がするけれど、気のせいということにしておく。
朝食と昼食の間のようなものを食べながら、今朝見た夢のことを考える。何か素敵な夢を見たはずだ。潮の香りと湿った風……漆黒の長髪と褐色の肌、それを彩る派手な刺青。彼は……そう、船乗りだった。彼は、彼を見ていた私は、どんな人たちなんだろう。……そうだな、世界一周を目指して旅をする、なんてどうだろう。いや、伝説の秘宝を探す海賊でもいいかもしれない。それとも——。
ガシャン。手から茶碗が滑り落ちた。乾いた米粒が散乱する。
「はぁぁぁぁ……」
ちゃんと生きなくては。それはわかっている。いつまでも稼ぎもなしに生活できるほど、人生は甘くない。書けないのならさっさと見切りをつけた方がいいのだ。まだ間に合う。今からならなんとか、正規雇用をもらえるかもしれない。だけど、学校にすら順応できなかった私に、会社勤めなんかできるわけないよなぁ……。
ヴーッとかすかなバイブ音がした。床に落ちているスマホからだ。なかなか止まらないので電話だろう。うめき声ともため息ともつかないものを吐き出しながらそれに目をやると、黒い画面に親友の名前が白抜きに浮かび上がっている。なぜこんな真っ昼間に、と思ったけれど今日は日曜日だった。緑色の応答ボタンをスライドすると、元気すぎる彼女の声が鼓膜を揺らす。
「よーっ、ゆきの! 生きてるか?」
「
「おいおい待って、今? 今起きたの?」
「そー」
「うわっ、自堕落だねぇ」
「うるさいなぁ」
気怠げに言いながらも、私は重かった身体が一気に軽くなるのを感じていた。沙月はすごい。いつも私が闇に呑まれているときに限って電話をくれる。もしかして見張られているのかと思うほどだ。カウンセラーという職業柄、そういう心理状態に敏感なのだろうか。いや、会っていないのにわかるわけもないか。
「……あのさ」
「お、どした? お悩み? 特別に無料カウンセリングしてやろっか」
「んふっ、いつでも無料じゃん。あのね……私さ、小説家、辞めようかなって」
鼻の奥がツンとして、喉が痛くなった。声が潰れる。沙月はしばらく黙り込み、やがて言った。
「あんたがそれでいいならいいんじゃない」
「うん……」
「ふ、よくなさそうな声してんじゃん」
「ね」
ふふ、と私は掠れた笑い声を上げる。
辞めた方がいい。生きるためには働かなくてはならないのだから。小説家として生きる道は夜の闇に閉ざされ、月光すら雲が隠して暗い暗い影を落としている。そうかと言って就職の道には、動かし難い大きな岩がいくつも横たわっているのだった。
「書けないの?」
「うん」
「そっか」
「……うん……あのね。二作目が、ぜんぜん売れなくて。昔聞いちゃったんだよね。デビューしても二作目が売れなければ小説家にはなれないって。だから……だから、っていうのは言い訳みたいだけど、書いても書いても面白くなくて。書けなくなってきて」
「そっか」
「……だけど書きたいんだ……」
その一言が唇から零れた。零れたことに驚く。そうか、私はまだ書きたいのか。
「そりゃそうでしょ」
沙月は明るい声で笑った。
「小説家になるんだって、中学の修学旅行の時から言ってたんじゃん。叶えられる夢は叶えときなよ」
そうだ。初めてこの夢を口にしたのは、中学三年生。将来の話になったとき、ふと言ってしまいたくなったのだった。
小学生の頃からひっそりと小説を書き続けていた。感じた鬱憤や苦悶や悲哀を小説に昇華することによって、私はかろうじて生きていた。そうしなければ生きていけなくなっていた。きっと一生、そうやって生きていくのだし、そのことを隠し続けるのかと考えると、なんとなく重荷に感じてしまっていたのかもしれない。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。小説という生きるよすがを、受け入れてくれる誰かを探していた。
あのとき、特に興味を示さなかった他の子たちと違い、沙月は言った。
——いいじゃん。そしたら、出版する前に読んでいい?
戸惑いつつ「いいけど」と答えると、沙月は私に抱きついて喜んだ。
今、彼女の声にはあのときと同じ、本物の喜びが宿っていて、私は少し泣きそうになる。どうして沙月は、私なんかにこれほど寄り添ってくれるのだろう。自分ごとのように悩み、喜んでくれるのだろう。私にそこまでの価値があるとは思えないのに。決して同じだけのものを返せないのに。
「ゆきの、あんたなんか変なこと考えてない?」
「へ?」
「黙り込んでるから。また自分の価値がどうとかぐちゃぐちゃ考えてるんじゃないの」
「……なんでわかっちゃうかな……」
「あっはは! 何年の付き合いだと思ってんのよ。……別にさ、難しく考える必要なんかないよ。書きたいなら書けばいい。もし立ち行かなくなったら私が雇ってあげるし」
「いや、沙月も雇われでしょ」
確か色々な学校や企業のカウンセラーを掛け持っているはずだ。カウンセラーは給料が安定しないため掛け持つ人が多いらしい。「精神安定の重要性もわからんやつが給料決めんの、意味わかんなくない?」とは、働きはじめたばかりの沙月の言葉だ。
「大丈夫、あんたが生き詰まるまでに独立して雇えるようにしとくから」
自身ありげな沙月の声に、私は笑う。
「ふふ、ありがとう。楽しみにしてる」
「楽しみにすんなって。夢、大切にね」
「うん」
また飲みに行こう、と話して電話を切る。誰かと話すのは久しぶりだった。バイト先の人たちは皆、私をほとんどいないもののように扱う。挨拶だけして、あとは話しかけてこない。触らぬ神に祟りなし、と言わんばかりだ。まぁ、うわべだけの人付き合いは苦手だから良いのだけれど。とはいえずっとひとりで黙っているのも身体に悪い。定期的に沙月から来る電話は、酸欠になっている私の世界に爽やかな風を吹き込んでくれるのだった。
書こう、と口の中で呟く。書けないなんて言っている場合じゃない。書かなくては。私は小説家になるのだ。
数日ぶりにパソコンを開いた。空白が眼前に広がる。大きく息をする。
書くんだ。
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