8. 着実
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パソコンを開き、ヘッドホンを耳につける。それまで聞こえていた、除湿機と窓の外に降る雨の音が、すべて遮断された。部屋の中には入れたばかりのコーヒーの香りが漂っている。いつも通り、作曲ソフトを立ち上げた。ライブ用に、楽曲にアレンジを加えるのだ。
結局、バンドメンバーは何度かレコーディングに来てもらっていた人たちを選んだ。ベースはLimさん、ドラムはイヌタさん、キーボードははるかさん。皆ツイッターで知り合った。十年前のように、募集サイトに登録する必要はもうない。ずいぶん便利になったと思う一方で、ルカやリックのような人には、ここでは出会えないような気がしている。
アレンジを入れるのもあと一曲だ。そのあとは、生音を使えないパートにミックス・マスタリングをかけて、音源にする。そこにバンドを乗せてリハーサルをする。
これからの過程を想像すると、楽しみで鼓動が速まる。まるで遠足の前夜のような高揚。夜まで作業をすると、それが邪魔をしてなかなか寝つけないことも多かった。そのため最近は、夕食後にはほとんど作業をしないことにしているが、代わりにオンライン会議を夜に回したので、結果は同じだった。もう少し規則的な生活をした方がいいのだろうけれど、興奮を抑えられない。
今だけはいいじゃないか。
僕はもう開き直っていた。今はこのどうしようもない高揚に、自然と浮かぶ微笑に、身を任せていたい。
ズボンのポケットが振動した。電話だ。ヘッドホンを外し、スマホを耳にあてる。
「もしもし」
「よるさん、松本です」
「あ、松本さん。おはようございます。何か進展ですか?」
「そうなんですよ!」
スタッフの一人である松本さんが興奮した声を上げた。彼は主にステージでの演出を、ホールの担当者に引き継いでいる。何ができて、何ができないのか。追加料金はかかるのか。かなり無理を言ってしまうこともあった。機材関係の仕事をしていたという彼がいなくては、今回のライブ演出は成り立たないだろう。
「『雨の日』の照明、できそうです」
「え、ほんとですか!」
『雨の日にまたここで』という曲の照明は、キーボードのはるかさんが提案してくれたものだった。雨が降っているような演出にしたい、と案を練ってくれていた。複雑すぎると保留にされていたが、松本さんが交渉してくれたのだろう。
「そっかぁ、じゃああとで会議の時に報告できますかね」
「そうですね。今日もう少し詰めるので、夜の会議までに確定させておきます」
「ありがとうございます、いつも」
「いえいえ、お任せください」
電話が切れると、部屋には静けさが満ちる。知らないうちに雨は止んだようだった。僕は立ち上がり、大きく伸びをする。長い間座っていたので、強張っていた身体がうめき声を上げた。
すぐにパソコンの前に座り直す。僕も、会議までに音源を完成させておきたい。もう六月。ライブまではもう少しだ。
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