9. はじまる

見奈美由紀乃みなみゆきの


 今日は朝から落ち着かない。鷹橋たかはしよるのライブに行くのだ。小説など当然書けたものじゃないし、昨夜はまったく眠れなかった。せめて、と鷹橋たかはしよるの全曲再生リストを聴き始めて二周目である。


 どんな服を着て行こうか。私が勝手に持つ彼のイメージカラーは濃紺だから、それに近い色のものがいい。ブラウスにスカート、という組み合わせはライブには合わないだろうか。いや、ライブグッズのTシャツを着るから、それまでのトップスは適当で構わない。そう考えつつも、私はスカートとブラウスを何着も合わせ、ベッドの上には脱いだ服が散乱した。


 別に彼と二人で会うわけでもないのになぜここまで、と私はひとり苦笑する。まるで初デートの直前のようじゃないか。


 いつになく丁寧に化粧をし、普段はつけないイヤリングまでつけた私は、イヤホンで相変わらず鷹橋たかはしよるを流しながら、電車に乗った。ドアの近くに寄りかかり、スマホを開くと、田端さんからラインが来ている。心臓が跳ねて思わず画面を切った。小さく息を吐いてもう一度開く。


〈ついにですね~! 見かけたら声かけていいですか?〉


 一緒に見ないのに声をかけてどうするのだろう。冷めたことを考えつつ、私はできる限り明るく答える。


〈楽しみですね! ぜひぜひ、話しかけてください~〉


 送ってから、本心とはかけ離れた自分の言葉に、唇が歪んだ。ライン上の私は、本当に私なのだろうか。私なら、田端さんに見つけられる前にこちらが彼女を見つけ、気づかれないように身をひそめる。


 そうは言っても別に、私は田端さんを嫌いなのではない。むしろ好感を抱いている。彼女はなぜだか私といても気まずく感じないらしく、あれ以来——鷹橋たかはしよるの話をして以来、田端さんは頻繁に私に話しかけてきた。しかも私が一人でいたいタイミングをかなり正確につかんでいるので、逆に混乱する。沙月がもう一人現れたみたいだ。沙月に対するように心を開ききるのはまだ難しいだろうが、大切にするべき人なのは確かだった。


 物販の時間に間に合うように会場に入ると、既にロビーは人で溢れかえっていて、改めて鷹橋たかはしよるの人気を感じる。人波を掻き分けて物販の列に並ぶ。買うものはあらかじめ発表されていたリストの中から決めていた。さすがに満員電車のようなロビーでウロウロする気にはなれない。


 会計の時だけ外したイヤホンを素早くつけなおし、私はロビーを離れた。トイレでブラウスをライブTシャツに着替え、席を探す。ホール内では音楽が流れていたので、イヤホンは無音のまま耳にはめていた。人が多いところでは、イヤホンは手放せない。イヤホンは私の世界を守ってくれる重要な装備だ。外界の喧騒から、私を一枚のカーテンで隔ててくれるのだ。


 人々のざわめきと会場のBGMを、水底にいるようにぼんやりと聞く。買ったグッズを手に取り、眺めていると口元に柔らかな微笑が浮かんだ。


 来てよかった。


 まだ始まっていないのに、そう思う。来なければグッズは手に入らなかったし、鷹橋たかはしよると空間を共有することもできなかった。今、舞台裏に彼がいて、これから同じ空気を呼吸する。そのことが心底から嬉しい。一緒に行くことを断っても、「ライブには行くべき」と背中を何度も押してくれた田端さんに感謝だ。


 影アナが入る。十五分前だ。そろそろスマホの電源を切らなければ、と取り出すと、沙月からの通知があった。


〈ゆきの、そろそろライブ?〉


〈うん。あと十五分〉


〈めっちゃ人いるでしょ。大丈夫?〉


〈たぶん…〉


〈笑 いやでも、あんたがライブ行けるようになるなんてね〉


〈それな。成長だよね〉


〈ディズニーでひーひー言ってたもんな笑笑〉


〈なんのことだか〉


 楽しみなよ、と言う沙月にスタンプで返し、電源を落とす。田端さんからの連絡はなかった。私の緊張を察してくれているのかもしれない。終わった後になら連絡してみようか、と考えた。


 あと五分。二階席の最前列からステージを見下ろす。あそこに、鷹橋たかはしよるが立つ。私の目の前に現れる。

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