7. 友情の下でうごめく何か

見奈美由紀乃みなみゆきの


 編集者と打ち合わせをしていたカフェを出ると、朝から降り続いていた雨はほとんど止んでいた。傘をさすかどうか迷い、駅まで行くだけだし、とそのまま歩き出した。さらさらとした霧雨が少しずつ髪を湿らせる。睫毛についた雨粒で、視界がわずかにぼやけた。


 雨は好きだ。湿ったような独特の匂いも、ひたひたと耳に染み込む音も美しい。その激しさにかかわらず、雨の日は世界中が厚い雨雲の毛布に包まれたように、暖かな静けさに満ちるのだ。そのためか、雨の日はいつもより執筆がはかどる。もし煮詰まっても、傘を持たずに散歩に出れば、降り注ぐ雨がオーバーヒートした頭を冷やしてくれた。


 電車に乗り込む。平日十七時過ぎの山手線は、ラッシュ時ほどではないがそれなりに混雑している。沙月は毎日、電車に乗って通勤しているのかと考えると、気が遠くなった。私にはとてもできない。外出はもとより、電車に乗ることなどいつ以来かわからないくらいだ。


〈電車乗ったよ。あと十五分くらい〉


 沙月にラインを送り、私はスマホを鞄にしまった。吊り革に腕を預ける。誰も声を発しない車内は、人がいるのにひどく静かで息が詰まりそうになる。私はイヤホンをつけ、つい先月出たばかりの鷹橋たかはしよるのアルバムを再生した。


 今日、木曜日は土曜日に出勤がある沙月の指定休で、これから沙月の家で飲み会をする約束をしていた。つまみも酒も沙月が用意してくれるというので、私はまっすぐ彼女の家を訪ねる。いつも飲み会をするときは沙月の家だった。私が打ち合わせなどがある日に、沙月の家に寄る形で開催している。沙月はかなり忙しいらしいのだ。


「次は、西日暮里、西日暮里」


 機械的な女性の声が、降車駅を告げる。車窓に再び打ちつけ始めた小さな雨粒を見ていた私は、はっとして顔を上げた。すみません、すみません、と人の波を喘ぐ。


 薄雨の中、傘をささずに歩く。雨に濡れると困るのでイヤホンを外していると、足元で路面を覆う雨水が小さく跳ね、可愛らしい音を立てていた。たまには外界の音を聞くのも悪くない。


 沙月の住むアパートに着き、インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開いた。


「いらっしゃい」


 元気よく笑う沙月が私を迎えた。


「お邪魔します」


「あんた濡れすぎじゃない? 傘は?」


「あるけど、出すのめんどくさくて」


「風邪ひくよ」


「大丈夫だよママ」


「あらぁゆきのちゃん、だめよ、冷えるじゃないのぉ」


「そんなママいる?」


「知らね」


 どちらからともなく笑い出す。ひとしきり笑った後、沙月は私をリビングへと案内した。リビングといっても、ワンルームなので玄関からはすぐだ。


「わ」


 私は思わず小さな声を漏らす。低いテーブルに所狭しと並べられた料理と酒。中央には小さな白い箱が置かれていた。


「すごいっしょ」


「うん。すごい……ね、あの箱は?」


「これはねぇ」


 沙月は悪戯っぽく笑い、私を座らせてからゆっくりと箱を開けた。


「ケーキ」


 二人の声が重なる。一つは笑いを、もう一つは驚きを含んだ声だ。なぜケーキを、と怪訝な顔の私をしばらく見つめ、沙月は呆れ声を上げた。


「ゆきの、あんたね……。誕生日でしょ? 昨日」


「嘘」


 スマホを開き、今日の日付を確認して、私は目を丸くした。


「ほんとだ」


 たしかに、昨日、六月六日は私の誕生日だ。何回目かは……数えたくない。


「え……ありがとう」


 戸惑いながらも言葉を唇に乗せる。沙月は得意げに、どういたしまして、と私の頭を撫でた。


「じゃっ、乾杯しよっか」


 チン、とガラスが触れ合う音が、雨の音と混じって響く。沙月の作った料理をつまみに、酒を飲む。


「沙月って、料理上手だよね」


「でしょ? あんた普段まともなもの食べてないんだから、今日くらいは、いいもの食べな」


「最近はまともですぅ」


「じゃあ昨日の夕飯は?」


「……お茶漬け」


「ほら」


 中学生の頃から一緒にいた沙月の前では、すっかり気が抜けてしまう。たった一人の気の置けない友人。彼女を失えば、私は夢すら捨ててしまうかもしれない。沙月になら何でも話せる。沙月にとっての私も、そんな存在でありたいと思う。


 しかし、油断しすぎるのもよくない。酒を飲みすぎてしまうからだ。そして、酔った私は、思い切り口調が崩れるのだった。


「ねぇ~沙月ぃ」


「うわ、始まった」


「なぁによ、いいじゃん」


「いいけどさ。何?」


「あのねぇ、バイト先の人にねぇ、ライブ誘われたの」


「ライブ? 鷹橋たかはしよる?」


「そ~」


 へへ、と私は笑う。全身が温かく溶けていく。


「いいじゃん。行けば?」


「えー」


「てか、あんたに話しかける人いたんだね」


「それな」


「認めるんだ」


「うん」


 私はまた笑う。


「どんな人?」


「んん、なんかね。私のペースに合わせてくれる人、かなぁ」


「そっか。じゃあ、大切にしないとね」


 沙月がアルミ缶を揺らしながら、私の肩を抱く。優しい声色が私に染みこんだ。彼女の肩に頭を預ける。二人でしばらくそうしていた。静かで温かで、一生続いてほしい時間。




 気づくと私はベッドの上にいた。ここはどこだっけ、と動かない頭を無理に働かせると、沙月の家で飲んでいる間に、寝落ちてしまったらしいと気がつく。どれくらい眠っただろう。沙月はどこにいるんだっけ。


「んぅ」


 隣で声がした。顔を曲げると、すぐ真横で沙月も眠っている。どうりでベッドが暖かいわけだ。きっと沙月が私を運んでくれたのだろう。


 沙月の瞼にかかる長い髪を、そっと整える。染めているのに傷みのない、艶やかな茶髪だ。長い睫毛に飾られた瞼がピクリと動いたが、目は覚まさなかった。なんとなく沙月の顔を見つめる。綺麗な顔をしてるよな、と酔いの残る頭で考えた。彼氏とかいるのかな。それとも彼女がいたりするのかな。沙月と付き合えるのはどんな幸運な人間だろう。できるなら私が——。


 そこまで思考して、私ははっとした。今、何を考えた? 沙月は大切な友達だ。文字通り唯一無二の、私の友達。下手なことを考えてはいけない。私は寝返りを打って沙月に背を向けた。それでも、一度速まった鼓動はなかなか落ち着いてはくれなかった。

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