6. 十年

鷹橋たかはしよる]


 アルバム制作と並行して、僕は数人のスタッフとともにライブ準備を進めていた。しかし、ライブの準備というのは、思っているより大変だ。会場とスタッフの確保、プロモーションの準備に、セットリストや演出を考えて、グッズも制作する。そして何より、バンドを探さなくてはならなかった。普段はパソコンで音楽を作る。ギターは弾けるけれど、ベースやドラム、キーボードはさっぱりなのだ。


 出演者が決まらないと、演出も何も決められない。しかし僕は、いつまでもバンドを決めあぐねていた。


「よるさん、バンド、まだ決まりませんか?」


 スタッフの一人が、電話の向こうで控えめに尋ねる。カップラーメンのスープを喉に流し込みながら僕は唸った。


「すみません、まだ……。そろそろやばいですよね」


「そうですねぇ……」


 それまでは「まだ大丈夫」と言ってくれていたスタッフも、いよいよ否定しなくなってくる。僕のファン層は学生が多いので、ライブをやるなら夏休みがいいと考えていた。確かにもう決めなくてはならない。


 実は僕は、準備を始めてすぐに、二人にラインを送っていた。かつてバンドを組んでいた、ルカとリックだ。返信はまだ来ない。せめて返信が来てから、と思っていたが、そろそろ諦めるしかないだろう。小さくため息をつきつつ、無意識にラインを開く。


 通知が来ていた。


 目を見開く。〈リック〉という太字の下に浮かぶ、薄く細い文字列に視線を走らせる。


〈とりあえず、会えるか?〉


 僕が送ったメッセージと比べてあまりに簡潔で、少し拍子抜けする。既読をつけようか一瞬迷うが、すぐに返信することにした。メッセージが届いたのはたった今。もしかすると、まだスマホを見ているかもしれない。


〈ありがとう。こっちはいつでも都合つけられるよ。リックは?〉


 送った途端に既読がつき、僕は思わず声を漏らす。


〈じゃあ今日の一五時に、渋谷のサンマルクで〉


〈わかった〉


 時計を見る。一三時半過ぎ。リックに会うならそれなりの格好をしなくてはならない。慌てて着替えとヘアセットを済ませ、僕は家を飛び出した。


 土曜の渋谷はやはり人間で溢れていて、冬場にも関わらずその熱気に息が詰まりそうになる。最近人に会っていなかった僕は、マフラーに顔をうずめる。雪空の下、人が車を轢いているスクランブル交差点を渡り、渋谷一〇九を通り過ぎてビルの中に入った。


 サンマルクカフェを覗くと、窓際の二人席に、視線が惹き寄せられた。黒光りするヘッドホンを首にかけ、真っ黒なコートを身につけた銀髪の男。スマホを操作しながらコーヒーを啜る。


 リックだ。


 一目見てわかった。服装は少し落ち着いたが、雰囲気はかつてのままだ。背が高くて一見威圧的。しかし、目を見れば優しさがにじむ人。胸が高鳴る。何年ぶりだろう。高校を卒業してからは会っていないから、十年弱だろうか。


 ホットコーヒーを一つとチョコクロワッサンを二つ、レジで注文してから彼のもとに向かう。声をかける前に小さく息をつく。あれほど濃い時間をともに過ごした人に会うにしては、滑稽なほどに緊張していた。


「リック」


「夜」


 リックはぱっと顔を上げ、僕を認めると目を細めた。


「久しぶりやな」


 心地よい低音の関西弁。泣きそうになる。十年前に引き戻されたような気がした。


 僕はいつも、リックに歌ってみてほしいと言っていた。どの男性歌手よりも、リックの声が好きだった。


「久しぶり。会ってくれてありがとう」


「別に。……なぁ、お前チョコクロ二個も食うんか」


「いや、まさか。君にあげようと思って。好きだったよな? これ」


「なんで?」


「お礼。会ってくれるとは思わなかったんだ」


 いらないなら二個食べるけど。


 そう言いながら包みを彼の前に押しやると、リックは黙って僕を見つめた。見つめ返した時に気づく。


「あれ、カラコンやめたの?」


「さすがにな。もう三十やし、そろそろイタいやろ」


 遠い目をして笑うリックに、わずかな寂しさを覚える。そうか、十年。十年は長いのだ。人が変わるには、長すぎる。


「お前は変わらんな、夜。相変わらず、地味や」


「うっ、うるさいな。多少はあか抜けただろ。君こそ、髪色は派手なままなんだな」


「それはええねん。カラコンよりマシや」


「いや、逆だろ」


 リックが明るい声で笑う。僕もつられて笑った。


「ほな、これはもらうで」


 リックは、チョコクロワッサンにかぶりつき、「熱っ」と呟いた。僕はコーヒーを口に含む。躊躇い、何度か口を開いては閉じ、ようやく僕は言った。


「それで、あの、考えてくれた?」


「……もう本題入るんか。早ない?」


 リックが真顔で見上げるので、僕は慌ててしまう。


「え、ごめん。じゃあ」


「いやええよ、素直か。ほんで?」


「……えっと、ラインで言った通りなんだけど、ライブのバンドに来てくれないかって話」


 読んでいないわけはないだろうに、と思いつつ僕は続けた。


「バンドって考えたら、僕は君たちしか思いつかないんだ」


 チョコクロワッサンを平らげたリックは、無言で手についたパンくずを拭き取る。しばらくして言った。


「結論から言うと、ごめん。それはできへん」


 心臓が刺されたかと思った。予想していたとはいえ、これほど痛いとは。


「一応、理由聞いてもいい?」


「キツいかもしれんで」


「いいよ。聞かなかったらたぶん後悔する」


 口の端に笑みを浮かべて、リックはゆっくりと話し出した。


「お前がラインくれたの、だいぶ前やろ? その後、ルカにうてきてん」


 僕は目を見開き、息を呑んだ。


「……まだ、怒ってた?」


「お前が俺らから離れたことにはもう怒ってへんかったよ。でも、何を今さら、とは言うてた」


「……」


 何を今さら。


 その言葉を吐き捨てるルカの表情が、ありありと浮かんだ。


 もっともすぎる言葉だった。二人から離れたのは僕だ。そこにどんな理由があれ、もう一度彼らと音楽をやる資格は、僕には——。


「正直、俺もそう思う。それに、ベースだけ別のヤツを連れてくるとか、そんなんは嫌やろ」


「……うん。そうだな。ごめん」


 僕の口にした謝罪は、受け取られることなく宙に漂う。いたたまれなくなった。


「……ルカがな、言うててんけど」


 沈黙の後にリックが伝えたルカの言葉は、ルカの声、ルカの口調で僕の鼓膜に触れる。


 ——夜、なんでバンド辞めるのか、言ってくれなかったでしょ? あたしはずっと、それに怒ってたんだ。納得はできなくても、言ってくれれば受け入れられたかもって思う。


 そうだ。僕は理由も言わずに二人から離れた。言い訳をするなら、「言わなかった」のではない、「言えなかった」のだ。しかし、そんなこと、二人には知ったことではないだろう。


 理由も聞かずに帰れない。そう思っていた。さっきリックに断られたときだ。だが、そうしていたのは僕だったじゃないか。理由も言わずに、二人を突き離したのだ。


「ごめん。ほんと今さらだけど、話してもいいかな」


「いや。今さらいいわ。聞いたところで何も変わらん。なんとなく想像もつくしな」


「……そうか」


 確かに、二人にはある程度想像できるかもしれない。


 僕たちが大好きだったバンド、ミューズが解散した。デビューから四年、僕が大学生になった頃だった。


 ドラムが自殺したのだ。


 そして彼、高橋幸仁ゆきひとは、僕のはとこだった。


 僕の両親はそれを知るなり、僕にバンドを、いや、音楽を辞めるよう迫った。母は泣きながら、父は目を逸らして。


「応援するって言ったじゃないか!」


 僕は叫ぶ。納得がいかなかった。ミューズの解散、ドラムの自殺、それが僕の世界すら壊すこと。理解できない。許せない。受け入れられない。


 しかし、突然の向かい風に抗う術を、僕は何一つ持たなかった。


「ごめんな。でも、父さんと母さんはお前が心配なんだよ。本気で何かを目指そうとするとき、挫折も本当に大きくなる。だから、幸仁くんは命を絶ったんだと思うよ。俺たちは、お前にそんな思いをさせたくない。夢よりも命を大事にしてほしい」


「そんなの……そんなの、わかんねぇだろっ!」


 父の、いつもと変わらない穏やかな語り口に、僕はどうしようもなく苛立った。


 挫折? そんなはずはない。ミューズは一過性の流行などでは決してなく、新曲を出すたびに何週間も連続してチャート入りしていた。「ドラムだけ下手だ」などという中傷も見たことがない。幸仁さんが、音楽で挫折などするはずがないのだ。


 しかし彼は、遺書も書かなかった。


 わからない。何も、誰も。


 わからないことは憶測を呼ぶ。ましてこれほど有名な、伝説とさえ言われたバンドだ。バンド内のいじめ、家族仲、恋愛沙汰、ありとあらゆる噂が囁かれた。幸仁さんの両親の自宅も早々に特定され、キャスターやライターを自称する者、その他野次馬に悩まされたらしい。


 僕はひたすらに、引きこもっていた。何もしたくなかった。あれほど好きだったギターも、すぐに薄く埃をかぶった。パソコンの作曲ソフトは長い間開かれず、ミューズの音楽だけが、僕の部屋で空しく流れていた。それはかつてのライブの時のように、僕を奮い立たせ生きる気力を与えることはなく、ただ虚ろに僕の心を満たした。


 〈夜、あんた、何してんの?〉


 ルカから来たラインは未読のままだった。何をしているとも答えようがなかった。


 〈夜、もう一月経つで。いい加減なんとか言うたらどうやねん〉


 優しいリックを怒らせてしまったことが辛かった。面と向かって言われない分、声音も表情も想像するしかなくて、それが余計に堪えた。


 夏になったころ、ようやく僕は二人に連絡をした。


〈ごめん。バンド、辞める〉


〈は?〉


〈ちょっと待てよ。どういうことや〉


 二人の怒りに、僕は何も弁解できなかった。ただ謝ることしかしなかった。だって、どう説明すればよかったと言うのだろう。幸仁さんの自殺も、ミューズの解散も、父が僕の成功など信じてくれていなかったことも、何もかもがどろどろに溶け合って受け入れられないままに、僕は闇の中にいた。


 何も見えない。聞こえない。息ができない。世界はこんなにも冷たく暗かったのか。僕の光は何だったのだろう。これまで僕を生かしていたものは何だったのだろう。


 今ならわかる。僕を導いてくれたのは二人だった。ルカとリック。一番失ってはいけない人たちを、僕は手放したのだった。


「なぁ、夜」


 窓の外を眺めながらコーヒーを飲み干したリックは、コト、とカップを置いて僕に視線を戻した。


「……俺らが渋る一番の理由、わかるか」


「え?」


「ほんまは言わんとこうと思ってたけど、やっぱ言うわ。独り言と思って聞き流してくれてもいい。……あの……あのな、技術の差が、しんどいねん」


 ふ、と吐息のように笑って、リックは続ける。


「俺もルカも、音楽だけでは食っていけてない。お前みたいに才能にも機会にも、恵まれへんかったんやろうな。今もう一回、バンドを組みなおしたら、たぶん圧倒的に違うと思う。昔のようにはいかん。……それが、しんどいんや」


 今日何度目かの沈黙が降りる。下を向くことしかできなかった。僕のコーヒーからは、もはや湯気は立たない。食べかけのチョコクロワッサンは不格好に崩れていて、僕は視線を逸らす。窓の外には静かに雪が降っている。店内の明るいBGMが、結露した窓を上滑りしていた。


 涙は出ない。ただ、ひどく愚かなことをしたという感覚だけが、全身にまとわりつく。


 謝りたい。あまりに無神経に、思い出にしがみついた僕を、許してほしい。しかし、それでは意味がない。リックは優しいから、謝ればきっと微笑んで「気にすんな」なんて言ってくれるだろう。「俺こそごめんな」と謝罪を口にさえしてくれるかもしれない。それでは、だめだ。リックに甘えてはいけない。謝って、許されて、そんな自己満足に溺れていては、リックとルカに向き合えない。もう二度と、二人と対等になるチャンスは来ない。


 いつまでも過去に縋るな。


 前に、進むんだ。


 意を決して顔を上げる。リックの視線に強くぶつかった。息を呑む。


「……リック」


「ん?」


「ありがとう」


「……なんで」


「会ってくれて、話を聞いてくれて……あと、全部話してくれて、かな」


 頬杖をついていたリックは、焦げ茶色の瞳をわずかに揺らした。


「ごめんな。言い過ぎたかもしれん」


「いいんだ。むしろ吹っ切れた。それにもとは僕が悪かったんだし」


「……あの、一応言うとくけど、お前のことが嫌いなんとはちゃうからな。俺は今でもお前の曲が好きやし、鷹橋たかはしよるを初めて聞いた時は……恥ずいけど、ちょっと泣きそうやった。曲調も声も昔のままやったし、お前がまた音楽をやれるようになったんや、って思って」


「……まじか」


 嬉しい。表情が緩むのを隠しきれない。僕は口元を手で覆った。あのリックを、泣かせた。僕の音楽で。そのことがこんなにも心を躍らせる。先ほどまでの重たく沈んだ心が嘘のようだ。僕はなんと単純な人間だろう。


「何ニヤけてんねん」


「いや……嬉しくて。泣いてくれたんだ」


「泣いてへん。泣きそうになった、だけや」


「とか言って……ってあれ、リック、耳赤くね?」


「ほんまにやめろって。クソ、言うんじゃなかった」


 リックはサラサラの銀髪を掻き上げ、僕から目を逸らす。照れくささを隠すための怒ったような表情は、三十近い男のものとは思えなくて、胸がくすぐったくなる。口元がほころんだ。


「なぁリック、ライブさ、チケット今度渡すから、もし気が向いたら来てくれよ。ルカも誘ってみてほしい。もちろん無理にとは言わないけど」


「……わかった。考えとく」


 リックは真面目な顔で頷き、「この後暇?」と尋ねた。


「暇だけど。なんで?」


「ほなもうちょっと喋ろか。十年ぶりやからな」


「……だな」


 かなり酔って家に帰ったのは、その夜遅くだった。

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