5. 成長と失望
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パソコンのキーボードの音。私のため息、咳払い。静寂が支配する部屋。近くの小学校で練習中らしい運動会の太鼓が、締め切った窓を貫いていた。
間抜けなスマホのアラームが空間を歪める。肩をびくりと震わせて、私は画面の停止ボタンを押した。バイトに行かなくては。立ち上がりかけたが、パソコンをシャットダウンしていないことを思い出す。慌てて座り直そうとして、脚が絡まって、転んだ。
「チッ……」
思わず舌打ちをする。小説を書いた後はいつもこうだ。頭がふわふわとしてうまく身体を動かせない。夢から覚めたような、幽体離脱から帰ってきたような、曖昧な覚醒状態がしばらく続く。この感覚を私は愛しているけれど、バイトをするには最悪だ。
髪をとかして化粧をし、空かない腹に昼食を詰め込む。歯を磨きながらふと思った。このぼんやりした感覚、久しぶりだ。あまりにも書けないときは、ただ苛々悶々とするだけで心地よさなど欠片もない。書けないのにパソコンの前から動けなくて、根が生えたように座り込み、数時間経つことも少なくなかった。もしかしたら、あれから多少は前に進めているのだろうか。
自転車を飛ばしてバイト先のハンバーガー屋に向かう。鮮やかな五月晴れの空に、白く輝く雲が広がっている。五月上旬とはいえ、運動不足の身体は悲鳴のように汗を噴き出した。太陽をまともに享受することなど、バイト前の今くらいだ。暗い人間は太陽を嫌うというけれど、私はまさにその典型と言える。散歩に行くなら日が暮れてから。日中はカーテンを閉め切ってしまう。私には眩しすぎるのだ。
「おはようございます」
スタッフルームはいつも通り、必要以上に冷房が効いていて、汗が一瞬にして冷える。同時に部屋の空気も、一瞬凍った気がした。賑やかにお喋りに興じていた他のバイトたちが、ぴたりと口をつぐむのだ。「はざまーす」などと適当な挨拶を返し、会話を再開するまでの時間は、彼らの中では何ということもない一秒だとしても、私には無数の氷の矢だ。いっそ気づかないでくれればいいのに。バイト先が変わっても、私に話しかけようという物好きはいない。
沈んでいく心をなんとか引き留めようと、深呼吸をしながら服を着替える。去年の今頃発売された
——神様なんていない。いるのは僕らだけだ。神様なんてものに人生を決められてたまるか。才能とか向いてるとか向いてないとか、そんなことどうでもいい。僕は自分でこの道を選んでやるんだ。
読んだ時、羨ましい、と心底から思った。神様をいないと言い切れることが。自分をここまで信じられることが。
才能という言葉は言い訳だ。もちろん本物の天才はいる。しかし、実績を残した人の多くは、才能より努力でできている。自分が大成しないのは、才能がないのではない。努力不足だ。もしくはやり方が違うだけだ。だから、才能などなくても諦める必要はない。工夫し、努力すればそれは必ず報われる。一見希望を持たせるような『歯車ダンス』のストーリーはしかし、私を深く深く抉った。
どうやってこれ以上努力すればいい。私のやり方の何が間違っていると言うのか。
三作目は書いた。四作目も執筆中だ。が、全く楽しくない。おもしろいと思えない。自分すら楽しめないものが、他の人を楽しませるわけはなくて、やはり二作目と同程度しか売れなかった。
やめたくない。負けたくない。私は小説家なのだと、胸を張って言いたい。逸る感情に、何かが追いつかない。何が足りないのかは、まだわからない。それを見出すときが、きっと私が小説家になるときなのだろう。辛いとは思う。焦りも苛立ちもある。それでも去年のように、小説家を辞めようかと真剣に悩むことはなかった。
——叶えられる夢は叶えときな。
沙月の言葉が、私を夢から逃がさない。夢から目を逸らすなと、私を脅す。私はその声に応える。夢を見据える。何もかも捨てて、夢だけを追う。
生活の心配をする必要はないと気づいたことも、心の迷いが消えた理由の一つだ。私には家族がいないからだ。父は私が生まれてすぐに母と離婚して音信不通だし、母は数年前に病気で死んだ。兄弟もいない。恋人もいない。つまり、養わなければならない人はいない。私が死んで悲しむ人も、ほとんどいない。沙月くらいだろう。
そう、今後全く小説が売れずに生き詰まることになれば、その時は何のためらいもなく死ねばいいのだ。小説家になれない人生に、用はない。
……あぁ、ここまで思っているのに、どうして神は、私に何も与えなかったのか。才能さえあれば。『歯車ダンス』の歌詞の通りだ。私たちは、神様の掌の上で踊らされている。醜く、無様に。
「……さん、南さん」
「……えっ、と、私、ですか」
誰かが私に声をかけた。名字で呼びかけられるのは久しぶりで(私の名が呼ばれるのは、沙月と電話するときくらいだ)、反応がひどく遅れる。声の主をまじまじと見つめてしまった。確か、田端さんという先輩だ。おそらく私よりわずかに年上。研修をよく担当してもらっていた。研修は半年前に終わっているのに、何の用だというのだろう。
「ふふ、やっと気づいた。もうミーティング始まりますよ」
「えっ、あっ、ほんとだ。すみません」
にこやかな田端さんの言葉に少し冷や汗をかきながら、慌てて彼女とともに部屋を出る。隣を歩き始めてすぐに後悔した。静寂で気まずくなることは目に見えていたのに……。
「南さんて」
しかし、突然田端さんが口を開いた。
「……はい?」
「
「なぜ」
なぜ知っているのか。話したこともないのに。それに、そもそも「好き」という言葉で表せるほど単純な心ではない気もする。
「この前口ずさんでたので。けっこう初期の曲」
「えっ……嘘、いつですか? 仕事中?」
「クローズ作業してる時だったかな。失礼かもしれないけど、この人も鼻歌とか歌うんだ、ってちょっと安心しました」
「それは……」
怒りはなかった。事実私はあまりにも親しみに欠けた人間だから。それよりも、自分が無意識に鼻歌を歌っていたらしいことにひどく驚いた。そんなことが自分にもできたのか、と。一体何を歌っていたのだろう。明るい曲だとしたら、柄じゃないにも程がある。暗い曲なら……でも、それならこれほど驚かれはしないか。
「ごめんなさい、怒った?」
「え? いえ……」
なぜいつも怒っていると思われるのだろう、とうんざりしながら答える。黙り込むのではなく、会話を繋げるべきだったのかと気づいたのは、家に帰ってからだった。
次の週、再び田端さんとシフトが被った時、私はなけなしの勇気で声をかけた。心臓が口から飛び出してどこかに行ってしまったかと思うほど、緊張していた。
「あの、えっと、田端さんも、お好きなんですか。
目の前の女性の名が本当に「田端」だったか、と急な不安に襲われつつ、しどろもどろに尋ねる。田端さんは少し驚いたように振り向き、ふわりと笑った。全身から力が抜ける。
「そうなんです! 新アルバムも買っちゃって」
「そう、なんですね」
「ライブ、やるんですかねぇ」
「あぁ……」
そうだ、去年の今頃、インスタライブで言っていた。
——次のアルバムできたらライブやりたいなーって。
忘れるわけがない。当然行く、とコメントはしたが、人混みが苦手なことは都合よく頭から追い出していたようだった。明らかに陽の気しか感じられないイベントに、私は行けるのだろうか。
「ねぇ、南さん、よかったら一緒に行きません?」
「何にですか?」
「え、ライブライブ。もしやるんだったら、一人ずつで行くのもなんだし」
「え……」
ちょっと待ってほしい。こんな展開は予想外だ。ライブに行けるかどうかをそもそも心配しているのに、それに他人と一緒に行く? 疲労で数日は寝込むだろう。
「ちょ、ちょっと考えてもいいですか? 人といるの、苦手で」
「えっ? え、あぁ、もちろんです。ごめんね、急に誘っちゃって」
「いえ、こちらこそ、すみません」
仕事中、私はまたしても大きな過ちに気づく。「人と一緒にいるのが苦手」なんて、間違っても人に言ってはいけなかった。絶対に傷つけた。
あぁ、どうして。どうしてこれほど、会話が下手なのだろう。人の気持ちを慮れないのだろう。小説が面白くないのもこれが原因なのだろうか。だとしたら、一生無理だ。こればかりは、努力でどうにもならない。
「はぁぁ」
私は大きくため息をつき、穴があったら入りたい衝動に駆られた。いや、なくても掘って入りたい。恥から、というよりも自分への失望から、脳内を“消えたい”の四文字が埋めつくす。もう一度田端さんに話しかけて謝る勇気は、もはや持ち合わせていなかった。
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