第9話

 着飾った唐織からおりは、夜見世の始まった吉原を禿や新造を引き連れて練り歩いた。客を茶屋まで迎えるため、見世と彼女自身の名を喧伝するための花魁道中だ。


 高下駄を履いた花魁は、人波の中でも優に頭ひとつ分は抜きんでて見える。遠目からでも、髪に挿した飾りの類は眩しく輝いて、彼女の顔を照らすだろう。あれはどこの見世の花魁か。あれが、唐織花魁か。吉原に慣れた者もそうでない者も、同じく賛嘆の溜息を漏らすのが、羨望の眼差しを浴びるのが、この上なく心地良かった。禿かむろのころから、厳しい躾と稽古に励んで来たのは、まさにこのためだったのだから。吉原に売られて、花魁の頂点に上り詰める以上の成功と幸運はない。残る望みがあるとしたら、姉のように裕福な商人か旗本に身請けされることくらいだろう。


 今宵、唐織が座敷に迎えた客はというと、彼女を身請けするには器も身代も少々心もとないようではあったが。敵娼の歓心を買おうと必死に言葉を並べる熱心さはあるものの、どうにも垢抜けていないのだ。


「唐織、今宵の月は見事だのう。まるでそなたのように冴え冴えと輝いて――」

「わちきは月は好きいせん」


 ありきたりな誉め言葉が癇に障って、彼女はふいとそっぽを向いてみせる。


「月など、夜ごとに形を変える浮気者。そのように見損なわれるとは、わちきは悔しゅうてなりいせん」


 ああ悔しい、ああ悲しいと。大げさに嘆いてみせるのも、もちろん嘘だ。


 月が嫌いな本当の訳は、誰にも言わない。月を見ると、水を差されたような気分になって面白くないのだ、などと。

 鏡のような欠けることのない望月だろうと、雲居に滲んだ光を放つ朧月だろうと、姉の唐織が見た月には敵わないのだと思ってしまうからだ。姉が清兵衛と見た、みそかの月。あり得ないはずの女郎の真を通した時に、愛しい男と眺めた幻の月。唐織にはその月がどうしても見ることができないままだ。


 いや、みそかの月など見たくない。見る必要もない。自身でも覚えていないほど吐いた嘘で、唐織は何もかもを黒く塗り潰してきた。だから見えないのは当然だ。なのに月の話などする無粋者がいるから、面白くない。ただ、それだけだ。


「唐織花魁のお怒りじゃ」

「まあ大変。天の岩戸にお籠りじゃ」


 機嫌を損ねた振りで屏風の影に隠れると、禿らが目ざとく囃し立てる。花魁は月より眩しい天道様と、不遜な喩えで姉分を持ち上げる。客も、さすがに神話をなぞって芸者衆に呼び掛ける、その慌てた声が座敷に響いた。


「誰ぞ、天鈿女命あめのうずめのみことはおらぬか? 天照あまてらす様の勘気を解く舞いを、誰ぞ!」


 屏風越しに客の狼狽え振りを思い描いて、唐織はきゃらきゃらと笑う。


 一度心得てしまえば、客の心を弄ぶのは息をするように簡単だった。嘘か真かなど見分ける必要も使い分ける必要もなかった。まったく姉は、折檻の苦し紛れで訳の分からないことを言ったものだ。偽りだけでも御職を張るのに何の支障もありはしない。だから、みそかの月など本当はもうどうでも良い。


 痩せ衰えた姉の唐織の、なのにこの上なく美しい笑みも。どれだけ鏡に向かって練習しても、どうしても真似ることができないけれど、それも良い。たとえあの笑顔を覚えたところで、清兵衛に見せる機会などないのだから。彼女は十分に美しく、誉め言葉にも貢ぎ物にも不自由していないのだから。


「高みの見物は、許しいせん。ぬしさんが舞いなんせ」


 そんなことより、座敷は彼女の思うがまま。だから何もかもこれで良い。毎夜毎夜楽しくてならないのだから。戯れに投げた声に応えて、芸者は軽妙な曲を奏で、禿も合わせて手を叩く。今の唐織の周囲には、さらさと呼ばれた小娘よりもずっと、気の利く者が揃っている。


「舞いなんせ、舞いなんせ」


 禿が囃し立てたかと思うと、屏風の向こうでどっと笑いが弾けた。客が、恥も外聞も捨てて踊り始めたのだろう。


「ええい、唐織、そなたのためじゃ! 早く出て来い。見ておくれ!」


 見世を揺らす三味線の音に、甲高い嬌声。楼主は下品だと眉を顰めるだろうか。年配の女郎の中には、小娘の癖に生意気だと陰口を叩く者がいるのも知っている。でも、唐織は今や稼ぎ頭の御職の花魁だ。誰にも文句は言わせない。花魁の高慢も我が儘も愛嬌のうち、客だってこれで喜んでいる。先日の田舎者の件では、見世の名だって売れたのだ。彼女のおかげで客にありつけた連中の遠吠えになど、耳を傾ける必要は毫もない。


「唐織、どうだ、舞ったぞ!」

「あい、主さんの真、見せていただきいした」


 十分に焦らした頃合いで、唐織は屏風から顔を覗かせた。天の岩戸の逸話の通り、騒ぎが気になって仕方ないというように、そろりそろりと。そうして、駆け寄ってきた客の、羞恥と高揚に真っ赤に染まった頬を、す、と撫でる。


「わちきのためにこんなことまで……しようのないお人」

「そなたの笑顔が見られるなら安いものだ」


 いかにも熱意にほだされた体で溜息まじりに笑んで見せると、客は得意げに胸を張る。全て嘘でしかないというのに、誰も、唐織の嘘を見抜いてくれない。違う、彼女が見せないのだけど。


「どうだ、機嫌は直ったか」

「あい。ほら、涙が出るほど笑ってしまって、恥ずかしい……」

「おお、そうかそうか」


 わざとらしく目尻を拭うと、客は上機嫌で相好を崩した。そして改めて芸者に舞いを、禿に酌を命じる。

 客の隣に侍りながら、唐織はこっそりと窓の外に目をやった。吉原の不夜の輝きに気圧されて、いっそう暗く見える夜の空を。


 月が見事だなどと、客はどうして言ったのだろう。彼女の目に映るのはひたすらの闇、今宵も月は見えないのに。

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みそかの月 悠井すみれ @Veilchen

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