第8話

 そして今では、唐織からおり花魁といえば「彼女」のことだ。姉を思い浮かべる者はもういない。笑顔も涙も自在に操って、客を転がす術を身につけたから。


 いや、客だけではない。見世の者だって彼女の顔色を窺って揉み手で媚びへつらうのだ。唐織が黒と言えば白いものも黒くなる。何もかも覆い隠せるし塗り潰せる。そうして嘘の己をこしらえるのが、彼女の何よりの愉しみになっていた。


 唐織の長く豊かな髪を梳きながら、女髪結いが囁いた。


「聞きましたよ。花魁は常陸ひたちの出だったのですねえ」


 暮れ六つに大門が開き、夜見世が始まる。花魁道中に備えて装いを凝らす最中のことだった。脂粉おしろいを重ねて紅をいて、結い髪に後光よろしく何本もの簪を挿して。自身を飾り立てるこの時間が、唐織は好きだった。


ちまたの評判でございますよ。郷里おくにに大層な仕送りをなさったそうで。さすが花魁、羽振りの良さも慈悲深さも並々ではない、と」

「ああ」


 廓に出入りするだけあって、女髪結いは遊女の扱いを心得ていた。大げさなほどに熱のこもったさすが、が耳に楽しくて、唐織は満足の吐息を漏らす。本心かどうかなどはあえて問うまい。機嫌を取る必要がある相手だと見做されたことへの満足なのだから。


「以前に名代を務めたお客人でありんした。吉原で国の言葉を聞くとはまっこと意外で懐かしゅうて……つい、話が弾んだのを思い出したのでありんすよ」


 女髪結いが言ったのは、唐織が最近座敷に上げた客のことだ。花魁道中の真ん前に飛び出して、訛った言葉で訳の分からないことを捲し立てた田舎者は、若い衆に叩きのめされても当然のところだった。唐織も、とんだ無粋者と出くわしてしまったと、最初は眉を顰めて通り過ぎようとしたのだ。


「たった一度の逢瀬を忘れず探してくれたなど──わちきは果報者でありんす」


 ただ、思い出したのだ。姉の名代でどこぞの富農と過ごした夜のこと。どうやって窮地を切り抜けたのか、誰かから授けられた呪いめいた台詞のことを。

 思えば、あれは唐織が客に吐いた最初の嘘で、最初に見せた幻だった。ならば、同郷の娘を慰めてやったという美しく楽しい夢の続きを紡いでやろうと思ったのだ。吉原の倣いを曲げて、茶屋も通さぬ素見同然の客を相手にする気になったのは、たったそれだけのことだった。


「果報者はその田舎者の方ですよ。金子も積まずに花魁に酌をしてもらえるなんて、滅多にあることじゃございません。酒も芸者も、花魁の掛かりだったそうじゃないですか」


 唐織の座敷の眩いしつらえに、芸者が奏でる音曲に。竜宮城に来たようだ、と。口から魂が抜け出るように惚けた体で、常陸の農民は呟いていた。それは、御職おしょくの花魁の座敷は割り床の大部屋とは訳が違う。ましてその男の隣では、乙姫もかくやと着飾った唐織が微笑んで酌をしていたのだから。


 下にも置かぬ歓待ぶりに、しまりのない顔を晒していた田舎者を思い出して、唐織はくすくすと笑った。


「だって、吉原暮らしが長くなってしまってなあ。わちきは国の言葉も忘れてしまっていたのだもの。せめて心を尽くしてもてなさねばならぬと、心に決めたのでありんすよ」


 思ってもないことがすらすらと口から出ること、唐織自身も驚くほどだ。嘘を吐くのに、彼女にはもはや一片の躊躇いも呵責もない。かつての芝居を白状するより、同郷の娘が花魁に成り上がった物語を見せてやる方が客も満足するのだから親切というものだったろう。


 あの夜、郷里の言葉を聞けてどれほど心強かったか、主さんのお陰で苦界で生き抜くことができいした、と。切々と訴えて手を握ってやれば、客人はああ、とかうう、とか呻いて赤面したきり何も言えなくなっていた。だから常陸だったかの訛りがまったく分からないのを誤魔化すのにさほどの苦労はしなかった。どうせ、床入りしてしまえばやることは江戸者と同じなのだ。


「常陸の村では唐織花魁の廟が立つことでしょう。そうして、観音様のように末永く詣でる者が絶えないでしょうねえ」

「なんと畏れ多いこと。わちきは売られる娘がひとりでも減れば良いと思っただけでありんすに」


 またひとつ、胸の裡が黒く塗り潰された満足感に、唐織は笑んだ。鏡に映る彼女の顔には、戻れぬ場所への郷愁と、過ぎた称賛への戸惑いと恥じらいがほど良く混じった表情が浮かんでいるはずだ。この顔を見た者なら誰でも、唐織花魁は常陸の寒村から売られた娘と信じて疑わないだろう。だから最初に名代を務めた夜も、久しぶりに聞いた国の言葉に涙ぐんだし話が弾んだ。あの農民に尋ねても同じ話が返ってくるだろう。そうだ、だから彼女は誰かの入れ知恵など要らなかった。たったひとりで、切り抜けることができていたのだ。


 そのように、なったのだ。

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