終
先に鏡を覗き込んだクラスメイト達の様子を伺っていた限り、そこに何か特別なモノを見た人間がいなかったことは明白だった。
だとすれば、僕が今から行おうとしている行為にはなんの価値もないのだろうが、ここまで来て一人だけ何もせずに戻るのも忍びない。
黒檀のような鈍い艶のある木材で出来た、一メートルにもみたいような小さな三面鏡。
その正面に膝を折り曲げて座り、そっと右の鏡を覗き込んだ。
ニ枚の鏡が互いに反射しあい、はるか奥の方まで何人もの僕の顔が映し出される。
我ながらなんとも感情の読み取れない表情をしているそれを、手前から順番に数えていく。
(一、ニ、三、四)
徐々に遠く、そして小さくなっていく自分は、その誰もがこちらを凝視していた。
(五、六、七、八……九……)
「――え」
「ん? 志賀? どうかしたか? お前、顔色悪いぞ?」
「――あ、いや。なんでもないです」
「そうか? それじゃ先生は戸締まりをしてから行くから、先に行っててくれ」
「……はい」
鏡の前から離れる。
家庭科準備室から出た途端に、廊下を全力で走って昇降口へと向かった。
誰もいない渡り廊下の途中で足を止めて息を整えながら、今しがた起きてしまった信じられない出来事を思い出す。
合わせ鏡が像を結ぶほとんど限界に近い場所にいた九人目の僕は、僕ではなかった。
多分だが、あれは――祖父だ。
祖父は僕が生まれる少し前、六十歳を手前にして鬼籍に入っていたので直接の面識はないのだが、家の仏壇に飾られた写真でその顔はよく知っている。
遺影の祖父とひとつだけ違っていたことは、鏡の中の祖父は目をつぶっていたということだった。
(……嘘だろ?)
今になって全身を悪寒が走り、それと同時に僕は再び駆け出した。
「お、志賀。遅かったじゃん」
校庭に着くとすぐに、クラスメイトにして友人の長谷川に声を掛けられた。
「長谷川ごめん。変なこと聞いてもいい?」
「おう?」
「……さっき、三面鏡の中に何が見えた?」
「え。何って自分の顔だけど。みんなもがっかりしてたよ」
「――そうか……うん、そうだよな」
そうだ。
僕の見間違えだったんだ。
そうに決まってる。
死者の顔が見えるなんて、そんな馬鹿げたことなどあってたまるか。
「それでは、全員揃ったクラスからバスのほうに移動してください」
学年主任の号令と共に集団はゆっくりと動き出す。
足取り軽くバスへと向かうクラスメイトに混じり、僕はただひとり、得体のしれない不安を払拭することに必死だった。
「あれ? 悠介は土曜なのに学校に行ったのか?」
志賀家のリビング。
休日スタイルの父親がリモコンでテレビの電源をつけながら母親にそう尋ねる。
「遠足だって先週言ったでしょ? さっき私が車で送ってったのよ」
「ああ。そういえばそう言ってたな」
父親は少しだけバツの悪そうな顔をすると、つけたばかりのテレビをそのままに新聞を手に持ってトイレへと行ってしまった。
母親はといえば、洗濯物を干しに庭へと出ていく。
そして、その直後。
誰もいなくなったリビングのテレビから、緊張感を伴ったアナウンサーの声が発せられた。
『たった今入ったニュースです。S県H市の中学生を乗せた遠足バスが高速道路で横転し――』
『後続のドライバーによって、唯一助け出された――』
『バスはその直後に炎上――』
『消防関係者の話によりますと、助け出された生徒の名前はシガ ユウスケさん――』
家庭科準備室の三面鏡 青空野光 @aozorano
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