1◆こんにちは、魔法使い


 馬鹿げているなぁ、と自分でも思う。

「あの、これ、お願いします」

「貸し出しですね。こちらにクラスと名前を書いてください」

 使いもしない楽譜本を借りる気まずさもあって、いつも通り下を向いたまま手続きを待った。カウンター内に座る司書の先生は手際よく処理を済ませて本を差し出してくれる。僕は黙って受け取った。

 昼休みになったら図書室で楽譜を借りて、放課後は音楽室へ向かう。でも弾かない。楽譜を立て掛けたピアノを、かつての相棒をただぼんやりと眺めて過ごすだけだ。

 教室が施錠されていないのをいいことに今日も引き戸を開ける。日課と言うほどでもないけれど、週に何回かは借りてすぐ返すという意味の無い行動を繰り返していた。

(いつからだっけ、こんなこと始めちゃったのは)

 そうだ。たしか、季節が夏へ移り始めた晴れの日だった。数ヶ月前になるか。

 友達に付き合って入った図書室。別に用事があったわけでもないから、宛ても無く本の壁を流し見ながら歩いていた。そしたら見つけてしまったんだ。音楽校でもない、こんな普通の一般高校だというのに、ピアノ用楽譜の背表紙がひっそりと並んでいるのを。二年生になるまで存在に気付かなかっただけで、静かに棚へ収まっていた。

 どうしてか手に取りたくなった。一冊引き抜いて無造作に開くと、まるで選んだかのようにその曲が目の前に広がったんだ。そこから僕の音楽室通いが始まった。

「フィガロの結婚。そもそもピアノ曲じゃないんだけどな、お前は」

 あの日出会ってしまった懐かしい譜面に向かって、僕は五線譜を撫でながら独り言を零した。──はずだった。

「でも君は、フィガロを弾けるだろう?」

 唐突な第三者の声に肩が跳ねた。いつの間に引き戸を開けていたのか、廊下から覗き込むようにして女の子が顔を出している。今喋ったのは恐らくあの子だろう。

 僕が目を合わせた途端、それを後悔する勢いで彼女は教室に踏み行ってきた。足元はなぜか緑のスリッパ。軽快にぺたぺたと音を鳴らしながら距離を詰められて、もう僕らを隔てるのはピアノのみだ。

「ね、そんな風に楽譜を眺めてばかりいないでさ。弾いてみてくれないか? 聴きたいんだ、君のフィガロが」

「……は? え。待って、なに? まず誰? え、ほんと誰?」

 背が低く、前髪だけがやたらと長い、どことなく変な喋り方をする女の子。セーラー服を着ているんだから生徒だということは辛うじてわかる。人の顔を覚えるのは得意じゃないけれど、少なくとも知り合いではないはずだ。

「私かい? 私の名前は真織まおり。真実を織り成すと書いて、真織。君と同じ一年生だよ、くん!」

 しん、という音がした気さえする。コイツに対して言いたいことが多すぎる。特に最後の部分に関しては本人としても思うところがあったのか、こちらに向けて決めポーズみたいに腕を伸ばしたまま固まっていた。

 何が起こってるんだろうな。どこか冷静に、そんな風に思った。

「……一個ずつ、伝えていいかな」

「……ウン」

「まずは腕。降ろしていいよ、そろそろ居たたまれないだろ」

「ウン。居たたまれない」

 真織と名乗った女の子は案外素直に頷いて力を抜いた。さて、一個ずつとは言ったけれど何から紐解いていくべきか。

 何度か通っている放課後の音楽室。そもそも誰かと鉢合わせるのは初めてだ。中学までと違って出入りは自由だし、吹奏楽部には専用の部室があるし、この棟の同じ階にあるのは視聴覚室と図書室くらい。僕が言うのもおかしいけれど、こんな一番奥の音楽室に何の用があったっていうんだろうか。

 疑問はたくさんあるものの、まずは大事なところから訂正していくことにした。

「僕はキャヤシャキイシュミなんて噛み散らかしたみたいな名前じゃないんだけど。僕のこと知ってるの? どこかで会ったっけ」

「か、噛んだってわかっているのにワザとらしく言うのはやめてくれないかな?! 君の名前はすっごく発音しにくいんだ、きゃや、かや、かやしゃ、いすみくん」

「か、や、さ、き、い、す、み。茅崎伊澄だよ」

「か、や、しゃ、き。いしゅ、み。いすみ」

「……わかった。とりあえず成功率の高い伊澄で許すから話を進めよう」

「い、すみ。伊澄くん。うん、こっちの方がまだ言いやすい。それで、えっと、ピアノの話だったね?」

「違うと思うけど」

 本当、何が起こっているんだか。初対面の人から名前で呼ばれるトンチキな状況で僕も少なからず混乱しているのかもしれない。無視すればよかったのに、律儀に会話を続けてしまっていた。

 いきなり静寂へ飛び込んできた彼女が、あまりに不思議な存在だったからだろうか。

「私は色んなことを知っているよ。君が伊澄くんだということも、よくここで何をするでもなく過ごしていることも、ピアノが弾けることも!」

「なに、僕のストーカーか何かなの」

「失敬だな。多大なる関心は持ってこそいるが追い回した覚えはないぞ。私には知っていることがたくさんある。ただそれだけのことさ」

 僕が子供の頃にピアノを習っていたと知っているのは、小学生からの友達くらいだ。それも、同じ高校へ進んだヤツはほんの少し。でも彼らから聞いたにしては情報が半端だった。

(だって僕はもう、ピアノを辞めたんだから)

 彼女の言い方では現在進行形だ。どうして弾けたことがわかるのか、どうして今もそうだと勘違いしているのか、そこまではわからない。ただ、確かにストーカーではなさそうだった。

「ひとまず、わからないけどわかった。じゃあ……えーと、君なんていったっけ」

「真織!」

 僕の曖昧な質問に対して、小さな子みたいに元気よく答えてくれる。苗字なのか名前なのかハッキリしない気もするけれど、たぶん名前なんだろう。呼び方には少し迷った。後輩なら妹の友達と接する感じで構わないか。

「うん、じゃあ、真織ちゃん。さっき一年って──」

「わっわっわっ?! や、やめておくれ〝ちゃん〟だなんて恥ずかしい! 気にせず真織と呼んでほしい、あまりにも恥ずかしいから!」

「……面倒くさい子だな」

 あと基準がさっぱり理解できない。そんなに照れるくらいなら、いっそ苗字を教えてくれればいいと思う。いきなり女の子を呼び捨てにするのは若干抵抗があったけれど、本人たっての希望なので僕は諦めることにした。

「真織。さっき僕と同じ一年とか言ったけど、僕は二年だ。ちゃんと先輩って呼ぶものじゃないかな」

 ワーキャーとひとしきり騒いでいた彼女もぴたりと動きを止める。二重ふたえの目を何度か瞬かせているようだった。窓から差し込み始めた夕日に照らされる顔を、改めてしっかりと見てみる。大人びているようにも、子供っぽいようにも思える造りだと感じた。

 例えば、横に流してヘアピンで留めている長い前髪。額を出す髪型だったとしたら、女子というより女性らしく見えなくもないだろうな。ただし口を閉じていれば。

「あれ? あれれ? 君って今十六歳じゃなかったかな」

「十六歳だよ。十二月まではね」

「あ、そういう……そうか満年齢じゃなか……いやごめんこっちの話。でも小柄だったしなんか一年生な気がして……確かカードには……あ、二年って書いてたかも……? 入力無意識すぎる……」

 あちゃー、と頭に手をやる仕草はどことなく古臭い。一人で勝手に納得したり落ち込んだりと忙しいヤツだ。僕はいったい何に付き合わされているんだろうか。

「……あ、わかった。本の貸与カードだな? 前に借りた人の名前がわかるから」

「ば……バレてしまったかー!! そう! 名前は! そういうこと! そして私は二年生だったのだー!」

「いや最後のは絶対嘘だろ」

「じゃあ仕方ない、一年生でいいや」

 変わり身の早さに思わず吹き出しそうになった。なんというか、色んなことがデタラメだ。どれくらい本当のことを言っているのか掴みきれない。でもどうしてだろうか、その嘘くささに悪意は感じなかった。

「変なヤツ。じゃあ、で決まるのか真織の学年は」

「まあ、ほら。現時点では同じ十六歳だし、ほぼ同級生ってことで。……あっ! 大変、こんな時間じゃないか。じゃあね伊澄くん、私には制限時間があるから戻らないといけないんだ。そう、シンデレラのようにね!」

「ならそのスリッパ片方落としていけよ、拾ってはやらないけど」

 セーラー服を着た、職員室で借りたみたいなスリッパのシンデレラ。なんだか安っぽくて可笑しかった。魔法が解けたら何になるっていうんだろうな。

 ぺたぺたと足音を鳴らしながら慌ただしく出ていこうとする背中に、ふと思い立って声をかけた。

「真織」

 意識せず大きな声が出たのか、教室に音が響く感覚がした。真織が振り向く。スカートの裾と長い前髪が揺れた。

「次会ったら、ちゃんと先輩って呼べよ」

 会うことなんてないだろうに、なんでそんなことを言ったのか自分でもわからない。子供みたいな顔いっぱいの笑顔を見せた真織は、今度こそ廊下へ飛び出していった。

 時計を見上げれば六時。部活を終えた妹がそろそろ片付けを済ませて帰る頃だ。

「どうせなら一緒に帰るか」

 独り言に誰も返事をしない。当たり前なのに、嵐が通る前よりも静かになった音楽室では妙に寂しく感じた。

それは、秋らしい肌寒さのせいかもしれなかった。

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