5◆君が残した魔法
真織がいなくなった音楽室に、僕はぼんやりと座り続けていた。だけどもう帰らないといけない。完全下校時刻まであと少しだ。
「嘘、つき」
独り言。ここにいない真織に向けて言った。嘘つきだ。初めて会った時からそうだった、正体もはっきりしない変なヤツ。緩んだ自分を反省したばかりだったのに、また絆されそうになって、余計に傷つくことになった。
帰らなきゃ。そう思ってカバンを掴んだ。その時、シャランと何かが小さく鳴った。そんな音がするものを入れた覚えがなくて動きを止めてしまう。そっと中を覗いてみると、奥の方に小瓶が見えた。真織に持たされたまま忘れていた金平糖だった。
──金平糖はね、優しい気持ちになる味がするよ。
「……ただ甘いだけじゃないか」
取り出して口に放り込む。たくさんあるトゲをゆっくりと砕く度に、不思議と落ち着く気がした。
──笑うとね、自然と楽しくなるんだ。ほら笑ってごらん。
「だから楽しくないのに笑えないよ」
ピアノに映った自分の顔を見てみる。口端をむりやり持ち上げたその表情はひどいほど滑稽で、不覚にも吹き出してしまった。
──指を見てごらん。傷があるのはそこじゃない、君の心さ!
「そんなことない、痛いのは指なんだから」
鍵盤に指を置いてなぞる。痛んだけれど、美しく白い帯が血で汚れることはなかった。
(あ、れ。おかしいな)
言い返しているはずなのに、なぜか違わない。ひとつひとつ反芻するうち、ひとつひとつ、心に何かがスッと落ちてくる。それはなんだか温かくて、切なくて、表現するのが難しい柔らかいものだった。
瞬きをしてみる。視界を覆っていた流血はいつの間にか止まっていたようだ。
「なんで、嘘のはずなのに本当なんだ。これこそ嘘みたいじゃないか……」
瞼を閉じた。心を切り裂かれた感覚は無くならない。だって過去を消すことは出来ないから。でも僕は無かったことにしようと目を逸らしていた。
(……そうか。懸命だった自分を、誰よりも蔑んでいたのは僕だった)
傷があったっていいと。あることを恥じるなと。受け止めきれなかったあの日の僕を抱き締めてあげればいいだけだったんだ。
ピアノが好きだったことまで否定するなという言葉の意味は、今になってようやく僕の耳に、心臓に届く。
僕はピアノが好きだった。だから無理をしてでもがんばって覚えたフィガロの結婚を弾きたかった。塗り潰されて忘れていただけ。呪いめいた感情は好きだったからこそ生まれてきた。少しずつ、魔法にかかるみたいに頭が澄んでいく気がした。
「……なんてヤツだよ、お前。嘘つきの魔法使いか」
僕は小瓶とカバンを脇に除けると、深呼吸をしてからピアノに向き直った。
白鍵に触れる。指先が目に痛いほど眩しい白色に映える。
黒鍵に触れる。指先が鏡のように輝いた黒色に馴染む。
決して軽くない力を込めれば、ぽーんと穏やかな音が鳴る。
ド、たった一音。その音は、僕が久しぶりに奏でた〝音楽〟だった。ああ、真織の嘘が僕に魔法を掛けていく。懐かしい旧友が耳から身体に染み渡る。恐怖は変わらなかったけれど、目の奥がじわりと熱くなった。
おかえり。そんな風に思った。
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