6◇魔法使いの正体①
僕はピアノの前にいた。なんならこの一週間毎日座っている。だけど真織が来ない。
「いや来いよ。今までの図太さで来るとこだろ。絶対お前なら来るって」
鍵盤にため息を零しながら背中を丸め込む。実際は自信があったわけじゃなかった。でも僕にはここで待つことしか出来ない。音楽室以外どこへ行けば真織に会えるのか、すっかり冷えた頭でも思いつかなかったんだ。
もう一週間。喧嘩別れみたいになったまま、声を聞けていない。真織は怒っているだろうか。
(怒る、よなぁ……完全に八つ当たりだったし……)
ぺたん、ぺたん、ぺたん。すっかり気落ちした僕の耳が、そんな音を捉えた。近づいてきたところで、控えめに引き戸が開いたのがわかった。
「……君は悪い子だな。図書の貸し出し期間を延滞するなんて」
しょんぼりとした喋り方。僕は俯いたままだったけれど、真織だと思った。この教室で聞く音を間違えたりしない。姿勢はそのままで、少しだけ強がった声を出した。
「なんだそれ。ああ、図書委員でもやってるのか。楽譜借りっぱなしだったもんな」
楽譜なら今、僕の目の前にある。そういえば真織はいつも本を借りた日に来ていた。もしかしたら、そうやって判断していたのかもしれない。
スリッパの音は止まったままだ。入ってこずに出入り口で立っているらしい。僕は構わず続けた。
「お前は知らないかもしれないけど」
目線はピアノに置いたまま体を起こす。真織は黙っている。
「ピアノなんて、楽譜があるだけですぐに弾けるものでもないし。何年も読んでなければ用語の意味だって忘れる。何より、指が追いつかない。痛くなくたってね」
子供の頃、あれだけ練習したんだ。自然と染みついているものがある反面、どれだけ難しかったかもよく覚えている。僕は本当に、好きという気持ちだけで努力していた凡才だったのだから。
「それでもいい。上手に弾いてほしいわけじゃない。今度こそ最後まで奏できって、錆び付いた私の心をもう一度動かして。ペンを執って表現したくなるような気持ちを掻き立てておくれ。あの日のフィガロを、聴かせてほしい」
途中で終わったフィガロの結婚。もう一度。僕のために、お前のために、演奏することが出来たなら。少しだけ何かが変わると思うんだ。
呼吸を整えて、顔を上げる。背筋を伸ばす。真織を見る──……真織?
「……は? え。待って、なに? まず誰? え、ほんと誰?」
立っていたのは見慣れた制服姿じゃなかった。長い前髪で顔のよく見えない、大きなメガネをかけた背の低い女性。ワンピースにカーディガンを羽織って、足元は緑のスリッパだ。茶色い髪は真織と同じで、でも後ろ髪だけ引っ詰めたその髪型はなんとなく覚えがあった。
普段は上から見下ろす頭。カウンター内で座っている、司書先生だ。
「すみません僕、てっきり知り合いかと、あれでも真織の声が」
「君という奴は……。こう呼べば満足かい、きゃやしゃきいしゅみくん!」
「……真織?」
先生がメガネを外して前髪をぐいと横に流す。少し垂れた、大きくて幼く見える目が露わになった。決めポーズみたいにこちらを指さす動きは真織そのものだ。
「まったく……。メガネは事務作業に必要なだけで変装だったわけでもないんだけど、ここまで気付かないのもどうかと思う。君は他人に興味がないんだな。あ、や、私も制服着ちゃってたけどもさ。そう、その、あれは自前なんだ。自分が現役だった頃の」
「待って。お願い待って。全然わからない、なにを言ってるのか今までで一番わからないから待ってほしい。……十六歳ってなんだったわけ?」
一瞬で真織の顔が茹で上がった。こんなリアクションは初めて見る。
これはつまり、司書先生が真織で、本当は一年生じゃなくて、高校生じゃなくて、学生じゃなくて、十六歳じゃなくて、後輩じゃなくて、年下じゃなくて、ええとそれからあとなんだっけ。
「……やっぱり嘘つきじゃないか! あとコスプレじゃないか!!」
「言うなーっ! 人が一番触れられたくないところピンポイントで突くなっ!! あと、あと、嘘ついたままじゃダメだと思ってこの格好で来たんだからな! その気持ちを汲むくらいしたらどうかな?!」
「突然先生とか言われたって意味わかるもんか! なんだよ現役だった頃って卒業生かよ! っていうか大人だよ年上だよ教師だよ? なにがどうなってセーラー服着ようと思ったんだ!」
「お願い繰り返さないで頼むからせめて言葉で殺す前に命乞いさせてぇ!!」
音楽室が防音でよかったってくらい叫び合って、ちょっとお互い肩で息をして、とにかくちょっとずつ詳らかにしていこうということになった。僕の演奏は少しの間お預けになる。真織はというと、今日は着替えをしていないから時間に余裕があるそうだ。
「まず私は、君にひとつ嘘をついていて」
「ひとつ?」
「ひと……うん、その、ひとつじゃない。たくさん。たくさんだけど、とりあえずひとつ。私の夢は順調だと言ったね。それは大嘘だよ」
小説家になりたいんだ。真織はそう言ったけれど、僕にはあまりピンとくる職業じゃなかった。でも、なんとなく香澄の話を思い出す。図書だよりに載る小野寺先生の文章は読みやすいと。
そして、ペンを執って表現したくなるような、とはそういうことかと納得した。
「子供の頃からの夢。どうせなら本に関わる仕事に就きたくて司書と……予想外に苦労したけど司書教諭の資格も取ってさ。ああ、よくわからないかもしれないけれど別々なんだよ。その司書教諭っていうのが今の私の仕事」
「それがどうして、僕の演奏が聴きたいだなんて」
「あの日の情熱的なフィガロさ」
真織は話しながら手近なイスに座った。やっぱり、僕は揺れる前髪が気になった。
「決して上手ではなかったはずなのに、君の必死さは私の感性を震わせたよ。この感動を表現したい、書きたい気持ちが溢れた。……でも今はすっかり言葉が枯れてしまってね。公募も落選続き、完全に行き詰まりさ。心が折れかけていた。そんな時だよ、君が図書室にやって来たのは。名前を見て本当に驚いた。偶然だった」
春先。見つけてしまった楽譜本。事務的な司書先生。
あの時、僕の気付かないところでそんな再会が起こっていたのか。いつも下を向いていた僕の顔と、貸与カードの名前、低い位置にいた彼女なら見比べることも容易かっただろう。
僕を見た真織は驚いた顔をしていたのかもしれないけれど、僕はきっとたいして気に掛けてもいなかった。いつもそうだった。
「加えて、君が音楽室へ消えていくことを知った時には自分勝手に喜んださ。また背中を押してもらえるって。でも先生として声をかけたら警戒されるだろう……?」
「あの登場は十分警戒したよ」
「や、軽い気持ちで乗り込んだら意外な展開になっちゃって、あんまり事情を話すと歳がバレそうで、辻褄を合わせるには多くを語れずだね……そしたらこの様さ」
お恥ずかしい、と小さくなるこの女性が真織だというのにはまだ少し慣れない。これまで何度も本を借りていたのにまったく見ていなかった。でも生徒としての真織はきちんと認識していたんだ。彼女が、この音楽室に飛び込んできたから。
(……あ、わかった。なんだそうか)
ピアノがあるこの音楽室は、この空間は僕にとって拡張されたパーソナルスペースだったんだ。心地良い自分の領域だった。だからここに居たかったし、乱入してきた真織を気にせずにいられなかった。
僕は最初から、音と触れ合うことを嫌いになんてなれてなかったんだな。
「まだ、聴きたいと思う?」
真織がパッと表情を明るくする。跳ねた前髪の隙間から見えた目は楽しそうに輝いて、本当に高校生みたいだった。言ったら怒るかもしれないけれど。
「聴かせて。弾くのは私のためじゃなくていい。それでいいんだ。君が、君らしくあるために弾いておくれ」
頷いて、深く息を吸った。緊張で走り出した胸はまるでメトロノームみたいにリズムを刻む。レドレドレ、両手を優しく乗せて左右同時に始まりの鍵を押し込めば、高さの違う音が重なり合った。
痛い。左の人差し指が痛む。動かない、思うように鍵盤を滑らない。でも動かしたい衝動が込み上げてくる。お前に聴いてほしい。今度こそ、最後までこの曲を。僕のピアノを。
僕だけのフィガロを、真織に。
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