痛みを伴う魔法②
「いーすっみくん! ピアノを弾いておくれっ」
「弾かない」
「なんだい、今日はいつもに増して冷たいじゃないか」
「僕はもうここに来るのをやめるから。今日は最後のつもりで楽譜を借りたし、それを伝えるために来たんだ。だから諦めてよ、真織」
金曜日の放課後。いつものように引き戸を開けて音楽室へ押し掛けてきた真織は、足を止めてキョトンとした。窓越しに、練習中だろう野球部の声がわずかに聞こえてくる。僕らが一瞬黙り合ったからか。真織と会うまでは当たり前に通り過ぎていた〝音〟が、わざわざ意識に留まる要素へと変わっていた。
ピアノのイスに腰掛けたまま、僕はいつかと同じように真織に向かって左手をかざして見せた。そこにはやっぱり、何も残っていない。
「……治ったんだろう?」
「治ったよ。でもピアノに触れると痛む。演奏中に手を止めたあの日と同じ、腕を引っ込めたくなる痛みが走る。だから弾けないんだよ。僕の指には、見えないだけでまだ乾ききらない傷が口を開いているんだ。そういうこと。これでわかっただろ」
出来るだけ何でも無いことのように語ってから、一気に心臓がバクバクと疾走した。声に出したのは初めてだ。喉が奏でて空気に触れた言葉は少し震えてしまったか。
僕は真織を見ていた。でも、真織の目を見ることは出来なかった。
「お前のために弾いてやることなんて、誰のためだって、出来ないんだ」
口を動かす度、どうしてなのか泣き出したい気持ちになる。自分が発しているのに、耳で捉えたその声に締め付けられる思いだった。
「最初は」
僕が腕を降ろすと同時に、真織はしばらく引き結んでいた唇をほどいた。
「最初は私が聴きたいだけだった。私の背中を押してほしい、勝手なほど私のためだった。でもわかったよ伊澄くん。必要なのは私じゃない。違ったんだね」
「違うって、なにが」
「指を見てごらん。……傷があるのはそこじゃない、君の心さ!」
傷なんて存在しない、そう一蹴されると思っていた。僕の目は、そんなつもりがなかったのに大きく見開いてしまった。閉じるのを拒絶するみたいに瞬きが出来ない。どんな表情をして、どういう動きをしたらいいんだ。反応の仕方がわからない。
何だよ、心って。僕の血が滴るのは指だ。指なんだよ。
「君が本当に、どうしようもなくピアノを嫌いになったなら、こんなことを言うのは酷だと思う。だけどそうじゃないとわかった。伊澄くんは嘘をついているよ。ピアノが好きで、なのに当時の気持ちを思い出すのが恐くて立ち止まっているだけなのさ」
「嫌い、だ。嫌いだよピアノなんて。元々嫌いだったから辞めたんだ」
「嫌いならこんな場所に来るもんか!」
真織が一歩踏み出したのが目の端に映った。スリッパが、ぺたりと鳴った。僕は動けない。走り続ける鼓動しか動いていない。
「見えない傷は消えない、消せない! そうだろう?! でも君が弾きたいと心のどこかで願うのなら、その傷がある前提でいるしかないんだよ。目を背けずに弾くべきだ。君が前に進むために、君自身のために!」
僕の、ため。自分のために弾くなんて考えたことがなかった。どんな感覚がするんだろうか。本当は、僕は弾きたかったんだろうか。だから図書室で本を見つけてしまったのか、ここに座ってしまったのか。
子供の頃の小さな心臓を串刺しにした感情が邪魔をする。自信が無い、自分の気持ちなんてうまく理解出来ない。流れた血で視界が霞む。
「真、織。僕は」
どうしたらいい、そんな情けない問いは躊躇われた。だけどわからないんだ。ピアノを嫌った僕が演奏なんか出来るのか、真織の手を取っていいのか──
「あの発表会の日、観客の戸惑いもざわめきも、いっぱいいっぱいだった幼い君には嘲笑に聞こえたのかもしれない。辛かったろう。その気持ちは私には変えられないよ。でも、ピアノが好きだったことまで否定しちゃダメだ」
「……なんだって?」
信じられなくて怖々と顔を上げた。頬がひくり、ひくりと震える。そんなわけはない、そのはずだと必死で考えながら僕は慎重に声を落とした。
「僕、最後まで弾けなかったのが発表会だなんて、お前に言ったか?」
そうだ。真織は前にもおかしなことを口走った。もう一度。もう一度聴かせてと。目の前で弾いたことなんか、ないはずなのに。
「それは……その」
「待てよ、待って、なんで……なんであの時のことをそんなに知ってるんだ? 僕は詳しくなんて話してない。お前はいったい、どうして」
「……会場に居たからさ。君の言葉でわかったんだ、あれが最後の演奏だったと」
頭の先から一気に温かみが引いていくのが感じられた。
思い出すのは周囲に満ちた驚き。
悲しみ。
嘲り。
落胆。
戸惑い。
焦り。
囁き。
騒がしいほどの様々な感情、視線、ざわめき。ハウリングするみたいに耳を刺す。下手なくせに怪我までして、ピアノなんて辞めてしまえと責められてるみたいだ。内側から溢れ出る後悔と激しい羞恥は当時の僕に重すぎた。それは僕の中にある色んなものを塗り潰した。
わかっている、そこに悪意なんてなかった。僕が感じたものは幻であって、誰もが僕の心配をしてくれていたのが真実だ。今となっては理解している。だけど無理だ。痛みと鍵盤は強く結びついて離れない。またあんな気持ちになるなんて耐えられない。
たかが子供の頃の失敗。でも深く深く刻まれた、記憶。
(真織は、そんな僕の醜態を知ってる)
吐き気がした。出来事を打ち明けるのと、同じ場所で体感されているのとではまったく違う。指を気にしてたどたどしくなった演奏も、無様に舞台から消えた背中も。全部、全部見られていた。知らなかったのはピアノを辞めたことだけ。
「伊澄くんと同じピアノ教室に姪がいてね。たまたま発表会に行ったんだ。そこで私は心動かされた。必死な、拙い、なのに愛おしさを込めた演奏。あんなの本当にピアノが好きじゃないと弾けない。君が奏でたフィガロに聴き惚れたんだよ。それで……」
「嘘言うなよ!」
遮らずにいられなかった。気を遣うみたいな慰めの言葉なんてかけられたくない。そんなのどこまでも惨めだ。あまりにも、惨めだ。
「心が動いただって? あんな、ただ一生懸命だったことしか評価しようがない演奏が? ふざけるのもいい加減にしろよ……感動したなんてそんなの信じられない! だいたいお前はいつもデタラメばっかりだったじゃないか! 何か、何かひとつでも僕に本当のこと言ったかよっ!!」
「言った……言ったさ! 聴きたいんだ、君のフィガロが! もう一度!」
突然、頬が濡れた。ぼたぼたと制服の襟に染み込んでいくのは、もしかして涙か。どうしてそんなものが零れてきたのかな。僕には理解出来ないことだらけだ。
驚いた様子の真織と僕の間を、スピーカーから響くチャイムの音が駆け抜けていった。六時の合図だ。
「……すまない。時間だけは守らないといけないんだ」
表情を歪めてから真織が背中を向ける。僕は放心したまま、ひらめく青いスカートを見送った。そんなことしか出来なかった。
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