4◇痛みを伴う魔法①
「大丈夫だよ、お母さん。だってほら、絆創膏で済んでるでしょ」
あれは嘘だった。
「先生、ちゃんと弾けます。だから出ます」
あれは嘘だった。
「痛くない、痛くない。そうだよな、僕」
あれは嘘だった。
全部全部、嘘だったんだ。
言ってしまえば、ただの切り傷。少し演奏するくらい確かに出来る。でもこれは年齢に見合わないと言われながら必死で練習した曲。簡単にアレンジしてあるとはいえ、本来はピアノではなくオーケストラ用の豊かなメロディライン。激しい早弾きに耐えられるのか自信は無かった。
二度と弾けない怪我じゃない。今この発表会だけ棄権すればいい。だけど隠して参加することを僕は選んだ。その結果が、あれだった。
──痛い……っ!
伴奏を奏でていた左手、人差し指は最初からじくじくと痛んでいた。元々完璧だったとは言えない演奏はどこか覚束ない。描いた理想から離れ続けていく現実に焦りながら、ただひたすら手を動かす。額に汗が滲んだ気がした。
そしてやってきた何度目かのフォルテシモ。指を強く鍵盤に沈めた瞬間、電気のような衝撃が腕まで駆け上がった。僕ははじかれたように手を引いた。もちろん音楽は止まる。代わりに始まったのはざわめき。ざわめき。ざわめき。
早い動悸、浅い呼吸。どうやって息をしたらいいかわからなくなりそうだった。忘れもしない、あれは十歳になる年の春。僕はそれからピアノを辞めた。
「……夢見が、悪いにも、ほどがある」
もう七年も前のことだ。こんなに詳細な夢を見るのは久々だった。夏は終わったのに、汗をかいたのか布団の中が蒸し暑い。時計を見た。まだ三時だ。
いったいどうしたっていうんだろうか。こんなこと、もうずっと無かったのに。
(……真織とたくさん、話したからなのか)
辞める時こそもったいないと止められたし、何を一度の失敗でと叱られた。でも僕があまりに頑なだったのと、元々中学にあがっても続けるか迷っていたのを知っていたからか、最後には母さん達も納得してくれた。小さな頃から慣れ親しんでいたエレクトーンは親戚の家へと渡った。だから本当に久しぶりだったんだ。誰かとピアノの話をしたのは。
別に話したかったわけじゃない。聞かれたからって話すつもりがあったわけでもない。あんな無邪気に、ありもしない自分の腕を求められて。遙か昔に捨てたはずだった奏者としての自分がくすぐられて、つい心が緩んでしまったのかもしれなかった。
「……馬鹿だ」
馬鹿だ。きっぱり辞めたはずだったのに、またピアノの前に座ったりなんかするから。気をよくして心を開いたりするから。離れればいいのに会うと分かっていて音楽室に行って、そのせいでこんな夢を見てしまった。
僕の怪我はとうに治っている。だけど傷はここにある。鍵盤に触れるとあの日の電気が走る。乗り越えられない傷を抱えているくせに調子に乗って、ただ血を流して辛くなっただけだった。真織といたら、七年前の気持ちに苛まれるだけじゃないか。
ぐるぐると思考が渦巻くうちに、僕はいつの間にかまた意識を手放していた。
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