3◆笑顔の魔法①


 今日の放課後はどうするか迷う。

 会いたいような、会いたくないようなと思いつつ昼休みに図書室へ寄った。ここで本を返却すれば今日は音楽室に行かない。もしくは、返却期限は明日だから借りたままにしておくことも出来る。それなら音楽室に行く。

(なんか、女々しいな僕……)

 本を抱えたままウロウロと、我ながら挙動不審だ。自覚はある。思い切って返してしまおうかとつま先を向けた。しかしそのタイミングで、カウンターの内側で事務作業をしている司書先生へと女子が親しげに声を掛けてしまった。

 僕の足に急ブレーキがかかる。まあ、スピードは出てなかったけれど。

小野寺おのでらせーんせっ。何してるの? なあにそれ、可愛い鳥の絵」

「ガチョウですよ。今月のオススメ紹介の記事を書いているんです」

「ふうん。なんて本?」

 僕が決断出来ずに渋っている間に、そのまま司書先生はすっかり捕まってしまった。これを押しのけて声を掛けるなんて僕には無理だ。なんなら昼休みがもうすぐ終わってしまう。

 どうする、どうする、どうす──……

「で、結局こうなったわけだけど」

 ため息混じりで引き戸に手を掛ける。返すこともせず、帰ることもせず、僕は放課後の音楽室にやって来ていた。いつもと違ったのは、真織がすでにいたことだ。教室に入ってすぐにセーラー服が僕の前に躍り出てきたんだ。本当にそういう勢いだった。

「君のピアノが聴きたい!!」

「驚異の図太さだな?!」

 そろそろちょっとくらい遠慮したらいいのに、その神経は恵方巻くらい太いんじゃないか。そりゃ僕だって会うと思ってここに来た。でも直球が過ぎる。前回の流れでその話題に突っ込んでくるのはあまりに直球だ。少し馬鹿な可能性も出てきた。

 もしくは鳥頭だ。そうに違いない。

「いやね、今日は伊澄くん来るかなー? 来るかもなー? って予測で来たんだけどもね。君のピアノが聴きたくてね?」

「言っただろ、辞めたって。だから弾かない」

 ピアノの前に腰掛けた僕に、真織がぱたぱたと近づいてくる。

「弾けないのでなければ、弾けるだろう?」

「……え?」

 ちょっとわかりにくい言い回しだと思った。ああ、でも、そうか。僕は〝弾かない〟と伝えた。弾くことが出来ないわけじゃないんだろうと彼女は言ったんだ。それは僕にとって核心に迫る言葉のようにも感じられて、隣に立つ真織を思わず見上げてしまった。同時に、左手を背中へ無意識に隠していた。

 今はまだ夕日が差し込んでいない。あとほんの数分もしたら一息に落ちてきて夕焼けになる。オレンジ色でない音楽室の中で、真織は普段通り少女らしく見えた。昨日真剣な眼差しを向けてきた彼女が、どことなく大人びて感じたのはなんだったのか。掴みどころがなくて不思議な子。

 お前はいったい、何者なんだ?

「私はね伊澄くん。今、夢に向かって疾走中なんだ。そしてそれは大変順調で、いつもピアノの前に座っているだけの謎多き青少年たる君の演奏に多大なる興味があって、実はちょっと元気がなかったんだけど君の音楽をもう一度聴けば──……君。なんて顔をしているんだい」

 脈略のない演説を続けていた真織が、ふと眉をひそめた。

「僕の顔?」

「いったいぜんたい、どうしてそんな悲しそうなんだい。君の方が元気ないじゃないか」

「お前に比べたらみんなそうだよ」

「本当、君は口が立つ。顔だけでも笑ってみるといい。笑うとね、自然と楽しくなるんだ。ほら笑ってごらん」

「嘘つけ、楽しくないのに笑えるもんか。テキトウなことばっか言うなよ」

「私はいつもそうしているんだ。忘れないで伊澄くん。人は、笑うと楽しくなる」

 そう言って微笑む真織が、表情に対して本当はどんな感情を持っているのか、僕には推し量ることが出来なかった。ただ、その笑みは凪いで柔らかかった。なんだか見ていたくて、なのに眩しい。陽が沈みだしたんだろうか。

 思わず目を細めた時、誰かが小さな声で呟いた。僕の声だった。

「……弾け、ないんだ」

 零れ落ちた。その表現でいいんだと思う。真織の耳に届いたのかどうなのか、わずかに首を傾げられた。いっそ打ち明けてしまいたい。可笑しな話だ、だって相手はたった数日前に会ったばかりの女の子。どうして、誰にも言えなかった秘密を告げたくなってしまうのか。

(聴きたい、なんて。あんな純粋に求められたのが初めてだから……?)

 いや、そんなまさか。だいたい真織は会う度にデタラメばかりだ。何が本当かわからない。そもそもピアノを弾けるなんてどこで聞きつけてきたんだか。

 妹だって僕が怪我をする前はよくせがんできた。辞めてしまった僕に気を遣って口を閉ざしたみたいだから、本当に小さな子供の頃の話だけれど。

「伊澄くん?」

「……なんでもない。ほら、もう時間じゃないの」

「あ、本当。じゃあね伊澄くん。気をつけて帰るんだよ!」

 ぱたぱた、ぱたぱた。スリッパの音が遠ざかる。僕も彼女が六時までに出ていくことは覚えていた。

「気をつけてって、お前。僕の方が先輩だっていうのに」

 真織といると、どこまでも調子を狂わされる。気持ちのやりどころに迷ったまま、僕は楽譜をカバンに突っ込んだ。

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