2◇金平糖の魔法
次会ったら、ちゃんと先輩って呼べよ。
「──って、僕言わなかったっけ」
「え、なんか言ってたっけ。それより今日はピアノを弾いてくれる? 伊澄くん!」
「お前動物占い絶対に象タイプだろ。耳が飾りなんだろ」
本を返したのは一昨日、そして今日改めて借り直してやって来た音楽室。まさかとは思いつつ日を置いてみたというのに、対策は意味を成さなかった。前回と同じく真織が突撃してきたのだ。
楽譜を立てて、鍵盤の蓋も上げて、その前に腰掛けて。完全に演奏前の姿勢でいる僕が言えたことじゃないけれど、何でそんなに弾かせたがるんだ。
「まさか昨日も来てたんじゃないだろうな」
「なぜ? 昨日は君が来ていないのに来る必要がないよ。……え、やだちょっと、君ってば今自分がどんな顔しているのかわかっているかい? すっごいよ、人の顔ってそんなに歪む? 伊澄くん、表情筋にそこまで柔軟性を求めるのは酷というものだよ」
今日もスリッパをぱったぱったと鳴らして僕の周りを歩き回るお前が本当にストーカーじゃないのか疑ってるからだよ。と、いう心情がそのまま顔に出てしまったらしい。眉根を寄せただけのつもりだったのにおかしいな。
この距離感。友達ですらないくせに一気に詰めてくる感じ。周りにいなかったキャラだし正直苦手だというのに、勢いに乗せられるみたいに会話してしまうのは少し悔しくもあった。
「なんだい、なんか元気ないんじゃないかな伊澄くん」
「真織がピアノをねだるからだ」
「声に覇気がない。それはよくない。そんな君にこれをあげよう」
「なあ少しくらい話聞いて」
僕の隣にちょこんと立った真織の左手がスカートの
それを目の前で開けると、真織は手のひらに中身を数粒転がした。こうやって見れば僕でもわかるものだった。
「これは女の子を構成するもののひとつ、その名も素敵なもの。優しい気持ちになる味がするよ。さあ、美味しいからお食べ」
「いやただの金平糖だろ。ていうかステキナモノってなんだよ、デタラメ言って」
「マザーグースさ。本を読むといい、ウチの蔵書にもあるから。さあさあお食べ!」
身体を寄せられてさすがに肩がギクリと強張った。近い、あまりに近い。家族以外の女の子がパーソナルスペースにいる。僕はイスに座ったまま、出来る限り後ろへとずり下がった。
これはもう相手を意識しているかどうかの問題じゃないんだ、女の子なことが問題だ。そういうことだから。そうだろ、そうなんだろ僕。なあ。
「ほおら、伊澄くんっ」
「コラねじ込もうとするな! ほら、えっと、えっと……知らないヤツからもらったもの食べるのはよくないって言うだろ!」
「確かに。なるほど一理ある」
そろそろ僕のお尻がイスから落ちるというタイミングで、急に納得した真織はあっさりと引いた。手に並べた星屑の形を自分の口へ放り込む。派手な音で噛み砕くと、傍の机に置きっぱなしにしていた僕のカバンへ軽やかに近づいて行った。
気付くとあまりに間抜けな体勢になっていた僕は、黙ってこっそり座り直した。
「じゃあ君のカバンに瓶を入れておいてあげるから、私からもらってもいいと思った頃に食べてみるといい」
「一理あったくせに押しが強い。というか友達じゃない自覚あるのに人のカバン勝手に開けるのはいいのかよ……」
「そう言わずに。ね、ね、それより聴かせてよ伊澄くん。私のために弾いておくれ」
ふわり。ヘアピンで軽く固定しているはずの前髪を揺らす真織。どうしてか僕は彼女の揺れる髪が気になってしまう。だけどそんなことで絆されるわけにはいかず、きちんと断る意志は変わらない。
「誰のためだって弾かないよ。ピアノは辞めたんだ、小学生の時」
もう七年が経つ。白い鍵盤の上をそっと撫でてみた。触れた人差し指が、じくりと深く痛んだ。思わず苦い笑みが浮かぶ。僕の悪癖はまだ治っていない。
「……辞めた? そんな、どうして」
大した理由じゃないよと返しながら僕は楽譜を閉じた。なんとなく、この譜面に見られながら話せない気がしたから。何かを見透かしてきそうなフィガロの目を塞いだ。
呆然としている真織に向って左手を向ける。そこにはなんの跡もない。
「指を怪我したんだ。ああ、大丈夫ただの切り傷。図工の授業中にカッターでね。あと少しズレてたら病院送りだったとは言われたけど、処置は絆創膏で足りたよ」
削っていた木材の上で刃先が滑るのは一瞬だった。気がついたら指先から血液が滴っていた。明日は発表会、そんな日に。
「でもそれがきっかけで辞めたのなら、相当なものだったんじゃ」
「全然。まあ指が痛くて、最後の演奏になったフィガロは途中で止まったけど、二度と弾けないとかそんなのじゃなかったし。……結局は、ピアノが嫌いだったんだよ。だから怪我を言い訳にして辞めた」
見事に再生した皮膚をかざして見せる。真織の目がそれを追ったのがわかった。何もないのがよくわかっただろう。表面上には、傷なんてない。
「最後の、演奏。フィガロ。途中で……」
僕の言葉をそっと繰り返す真織。返事はせずそのまま楽譜を掴み、席を立つ。反対の手で鍵盤の蓋も閉めてしまった。もう今日はこれ以上眺めているつもりはなかった。
「辞めたんだ。だから、弾かない」
僕は弾かない。そして、これ以上のことを説明する勇気もない。自分自身から目を背けるつもりで真織を見た。真織も、僕を見ていた。
「伊澄くん」
「なんだよ」
「嫌いだというのなら、君は音楽室で楽譜を前にして、何をしているというの」
まっすぐ、まっすぐに視線が絡んだ。前髪の隙間から覗く瞳が僕を映している。夕焼けに染められた真織の声音に責める様子はなく、ひたすら真摯ですらあった。話してしまおうか、この情けない痛みを。揺らぎそうになる。
息を浅く吸い込んだ。喉がやけに乾燥した。
「……それは」
「んあっ!! いけない、時間時間! それじゃあ私はこれで!」
急に飛び上がったかと思うと、真織はスカートを大きく翻した。白い腿から僕が咄嗟に目を逸らしたうちに、引き戸まで素早く駆けていく。さっきまで走っていた緊張感はすっかりなくなっていた。
(何をしているというの、か)
廊下に消えてく時、チラと見えた彼女の横顔。悲しげにも見えた一瞬の陰りが強く印象に残った。
──おにいちゃん。ねぇ、もうピアノを弾いてくれないの?
一度だけ尋ねてきた妹の言葉を思い出す。今思えばその歳のわりに聡い子だったからか、何かを感じたらしく、それ以降ねだってくることはなかった。去り際に残った真織の声は、それと同じような寂しい音だった気がする。
間もなく、六時のチャイムが鳴った。
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