7◆ガラスの靴は消えない
パタパタパタ、カラララ……ストン。
(歩いてきて、イスを引いて、座った)
トン、パラパラ、パタン。
(本を置いて、開いて、閉じた)
カタカタカタカタ……タンタンッ、カタカタ。
(キーボードを打って、文字を消して、また打った)
手元の小説を読んでいたはずなのに、僕の耳と意識はいつの間にかカウンターの内側へ向けられていた。何の動きかいちいち想像して、これじゃ聞き耳を立てているようなものだ。よくないとは思う。
司書先生……つまり真織と僕しかいなくなった図書室は、静かなのに音がたくさんある。今もカウンターから出てきた彼女が歩き回るから衣擦れや足音が鳴り続けていた。それが一瞬止まったので顔をあげると、胸に抱えた数冊の本を順に棚へ戻そうとしているところだった。しかしその顔は、身長に対して随分高い場所を見上げている。
「そこ、届くの?」
「届きます。……踏み台を使えば」
ついに話しかけた僕にムッとした顔を向けてくる。真織は傍にあった台を慣れた様子で引っ張ってくると、残りをテキパキ収納した。降りる時、ぺたん! と派手な音が鳴った。スリッパだ。
(そうか、スリッパは普段から履いてるわけだ)
服装と髪型が違って、あとはメガネもかけていて、いつもの印象からかけ離れている。なのに足元だけはいつも通りぺたぺたと賑やかな緑色のまま変わらないのが、なんとも可笑しかった。
すっかり読書から興味を失い真織を眺めている僕に気がついたんだろう。彼女は口元をむずむずとさせてから、諦めたように息をついた。メガネを外して僕に向き直る。前髪が揺れた。
「ほら、もう五時半だ。図書室を閉めるよ。私はまだ業務があるから君は帰るといい」
「あ、やっぱり敬語よりその喋り方が落ち着く。真織感ある」
「……なんだい私感って。それともう〝女子高生の真織〟は店仕舞いしました。だから小野寺先生と呼ぶように言っただろう?」
確かに言った。今日の昼休み、カウンターの中へ声を掛けようとして、ふと呼び方に困った時だ。口を開いたまま逡巡する僕へ真織が「何か?」と澄まして聞いてきたのにカチンときたから、僕もつとめて冷静に聞いてやった。
「センセー。今さらセンセーを先生と呼ぶのも変な感じなんですけどセンセーのこと何て呼んだらいいですかセンセー」
「きゃや、……か、や、さ、き、くん。図書室ではお静かに願います。あと小野寺先生で結構です」
相変わらず名前は噛むみたいだけれど、結局司書としての事務的な口調のまま正論をくらった。返す言葉も無い。
あれだけお互いに腹を割ったあとだ。僕としては親しみも感じているし、態度を分けるなんて器用なことが出きる質でもない。あんなに子供みたいな振る舞いをしておいて仕事中には落ち着き払っている真織が、意外で仕方なかった。
悔しい思いもあって、こうして放課後も図書室に押し掛けてきたわけだけれど。なんとなくモヤりとした気持ちは晴れないままこんな時間になってしまった。
「いつも今くらいから六時までは音楽室にいたよな。もう仕事終わりなんじゃないの」
いったい何に縛られているのかと不思議には思っていた。六時の鐘までに戻らないといけない彼女が、その時間以降どう過ごしていたのかを僕は知らない。
「あれはだね、君が楽譜を借りに来た日だけ正規の休憩時間をズラして夕方に取っていただけさ。図書室を空にしておくわけにもいかないから閉館後にね。それに閉めたら帰れるわけじゃないんだよ、図書室に戻ってからも仕事していたんだ」
正体を明かしてから制服は着れまいよ。そう真織は小さく続けた。つまり今日は音楽室に行くつもりはなく予定通りに休憩時間をとっていた、と言いたいらしい。そこに、音楽室ではなく図書室の方へ僕がやって来たというわけだ。
(別に、セーラー服じゃなくても来ればいいのに)
僕としても、音楽室で待っていたらまた真織が来てくれるんじゃないかという期待があった。でも昼間のリベンジみたいな気持ちと、生徒じゃない真織を観察してみたかったのと、あとは……待っていて来なかったら嫌だから。逆に押し掛けてみたんだ。その選択は間違ってなかったらしい。勝った。
「それで、今はなんの仕事してるの」
「他の先生から頼まれたプリント作りさ。わかるだろう、資料収集と文章作成は得意なんだ。あとは蔵書の──ってこら、閉めるって言っただろう! 聞き分けのない子だな」
「年上だってバレた途端に大人ぶってる」
「違う、これまで私が子供ぶってただけでだな……それも違う。大人ぶってるんじゃなくて大人です。先生です」
「真織……小野寺先生、に子供扱いされると調子が狂う」
「おや。今までもしてたつもりだけどね」
(全然大人らしくないくせに。……そもそも、いくつだ?)
さすがの僕でも年上の女性に年齢を聞くのは憚るべきだと感じる。だけど気になる。どうにかして自然に白状させる方法がないものかと考えても、僕にそんな上手なお口はついていなかった。
「あ、そうだ発表会。姪っ子がどうのって言ってた」
「発表会って、七年前のかい? そうだよ、仕事で行けなかった親の代理でね」
僕が通っていたのはジュニアコースだ。一年生だろうが六年生だろうが、当然そこには小学生しかいない。どれだけ小さくても六歳ではあるということだ。さらにその親だと三十歳に近くておかしくないだろう。なら、真織は?
「七年前で小学生の姪がいるって、いったい先生の兄ちゃんだか姉ちゃんだかはどんだけ年が離れてるわけ」
「え? ああ確かに兄さんとは七つ差だから少し離れて」
「七つ……だけ……?」
「何をそんなに……あっ」
僕のうろんげな顔を見て、何を探ろうとしていたのか勘づいたらしかった。真織が少しだけ頬を赤くする。バレてしまっては仕方ない、なんて初めて会った時の真織みたいなことを思った。
「年齢、だろう? 笑ったりとかしたら怒るからね……ぅ、なな歳だ」
「は? 十七?」
「に、じゅう、ななっ!」
二十七。僕より、十も年上。知らないうちに口がぽかんと開いた。先生なんだから成人だとは思っていたけれど、これはあまりにも予想外。なんというか、意外性という意味で。すごく。とても。かなり。
「に、じゅう」
「……ウン」
「なな」
「……ウン」
「……よくセーラー服着ようと思ったね」
「ひどい! 笑うよりひどい! 一番ツラい!!」
泣くみたいにワッと顔をおおった真織が、そのままカウンターの中へと逃げ込んでいった。でも駆け足になったせいか、スリッパが片方脱げて床に取り残されている。
(そういえば、最初自分のことシンデレラだとか言ってたな)
僕は席を立って、落とされた履物を物語通りに拾ってやった。王子様かよ、と思わず笑ってしまう。
魔法が解けて、普段通りの姿に戻って。でも本物だったガラスの靴だけは決して消えることがない。そうだ、真織本人だって同じなんだ。大人で、先生で、別人になったみたいだったけれど。なんてことはない、魔法が解けたところで真織は真織だ。
シンデレラがどんな格好でも彼女らしく在ったように。中身は真織なんだから、なにも変わらない。
突然現れて心を抉じ開けていった、不思議な女の子なんだ。
「ほら真織、靴下汚れる」
「……学校では小野寺先生と呼びなさい」
「学校でしか会わないのに?」
真織は差し出されたスリッパを大人しく受け取ると、履くために俯きながら何か呟いた。小さすぎて耳に届かず聞き返してしまう。そうしたら、今度は拗ねたような目を向けられた。
「……真織、と。呼ばれなくなるのも、ちょっと寂しい。少しくらい余地を残しておいたっていいじゃないか……」
「は……あ、はは。なんだそれ」
やっぱり真織だ、なんて思うとじわじわ面白くなる。笑っている自分につられてさらに笑えてくる、そんな連鎖反応が起こった。ああ、前に聞いたのと似ているな。
「楽しそうにしちゃってさ……。君、他人に興味ないみたいなタイプだったくせに。嬉しいけど。可愛いけど」
「可愛いは余計だ。さ、よく笑ったし小野寺先生に追い出されそうだし、そろそろ帰ろうかな」
「そ、そうだぞ早く帰りなさい。先生は仕事中です、まだ仕事があるんです」
どうせなら香澄を拾って帰るかなと考えながら伸びをする。読んでいた小説はすぐ傍の棚へ戻した。荷物も広げていなかったから、支度はすぐに済んだ。もうすぐ六時のチャイムが鳴る頃だ。
引き戸に手を掛けようとして、ふと止まる。思い出したことがあった。
「なあ。先生は、将来小説家になりたいんだよね」
「将来とか言える歳でもないんだが……そうだよ。それが夢だから」
高校二年生の秋、そろそろ進路なんかも意識させられ始める。ついこの間までは煩わしいだけだった。特にやりたいこともなかったし、受験なんかはまだ先なのにと思っていたからだ。
真織の方を向いて、ちょっとだけ背中を伸ばす。伝えておきたかった。
「……僕も、将来の夢が決まったかも。なんとなく」
「なんだって! もしかしてピアニストかい?」
「いや、さすがに今さらそれは目指さないよ」
「いいと思うけどなぁ」
無茶ぶりをしてくれたもんだ、と苦く笑ってしまった。子供の頃に弾いていただけの僕が勝ち残れるような甘い世界ではないし、そこまでの才能が無いのもわかっている。ただピアノが好きなだけ。僕にはそれしかない。それでいい。
「先生に、さ。子供にピアノを教える先生になってみたい。どうすればいいのか全然わからないけど」
もしかしたら音楽の大学に行かないといけないのかもしれない。教員免許がいるのかもしれない。他に特別な資格がいるのかも、そしてそれは難しいのかも。まったくもって知らないことだらけだ。
それでも、たどり着きたいゴールが決まった。僕の中でこれまでにない活気が灯った気がしていた。
「……素敵。本当に素敵だ。わからないなら調べればいい、調べ方がわからないならいつでも私が手を貸そう。なんて言ったって司書だからね。今度は私に伊澄くんの夢を応援させておくれ」
「じゃあさ。また、僕のピアノを聴きに来てよ。音楽室で待ってるから」
微笑んでくれた真織を残して、僕は図書室のドアを閉めた。胸が弾んでいるのを感じる。以前真織といると血が溢れると思った傷口はきっと今かさぶたになっていて、その再生によって生まれる熱量が僕を温めているみたいだった。
(先生に、なる。真織みたいな)
僕みたいに挫けそうになっている子を、真織みたいに導いてあげられる。そんな先生になりたいと思ったんだ。
でもそれを告げるのはまだ恥ずかしいから。真織には、内緒だ。
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