第5話(終)

【9月20日 午後1時42分 市立若草わかくさ総合病院】


 途中で見つけた人気ひとけのない洗車場で丹念たんねんに車を洗ったあと、千晶は彼女とともに再び市立病院へ戻る。この駐車場で不審な彼女を見つけてからちょうど一時間。ほんのわずかな、しかし恐ろしく濃密のうみつな時間が経過していた。


「着いたよ」


 出発した時と同じ場所に駐車して千晶が伝える。疲れているが休むわけにはいかない。早く元の業務に復帰しなければならなかった。


「千晶さん」


 助手席の彼女が思い詰めたような表情でこちらを見つめている。


「本当に、ありがとうございました。お陰で私も子供も、なんとか今は助かりました。千晶さんは……命の恩人です」


「そう……」


「……ですが、全て忘れてください」


「忘れる? あれを?」


 千晶の声に彼女は強くうなずく。いきなり女を出せと言ってきた謎の男女、異常な速度で追いかけてきた赤いオープンカー、そしてこちらの車にしがみついて襲いかかってきた怪物。それは自分の世界と地続きに存在する、陰惨いんさんな闇の世界を予感させていた。


「千晶さんは今日、何も見ていません。なんの出来事も経験していません。いきなり知らない女に頼まれて、車で近くを走り回っていただけです。もう私ともなんの関係もありません。どうかそうしてください」


「そ、そういうわけにはいかないよ。あんなの、忘れようとしたって忘れられないよ」


「駄目です。忘れてください」


「あなただってまだ無事じゃないんでしょ? またあんなのに襲われるんじゃないの?」


「たぶん、また来ると思います。あの人たちは、私を絶対に放ってはおきませんから」


「だったら」


「それでも、千晶さんは忘れてください。ご家族のためにも」


「家族?」


「お子さんがいらっしゃいますよね? 口振くちぶりで分かりました。私に関わったらその子まで無事では済みません」


 彼女は声をひそめて脅しかける。子供まで出されたら千晶は口をつぐむしかない。何を言っても無駄だと悟った。


 二人は揃って車を降りてから、一瞬だけ視線を交わす。それからはもう互いに顔を見ることなく並んで歩き始めた。


「あなたの気持ちは分かったよ。一緒の職場で働けないのは残念だけど、もう話も聞かないし、会わないことにする」


「そうしてください。それが千晶さんのためです」


「だけど、もしまたどこかで出会ったら、今度は遠慮なく声をかけて。何度でも助けてあげるから」


「……ありがとうございます」


 病院で入口近くにあるベンチに一人の高齢女性が腰を下ろしている。その近くには小さな男の子が地面にしゃがんで、アリの観察でもしているようにうつむいていた。千晶は頭を『仕事モード』に切り替えると、小走こばしりになって駆け寄った。


「ミチヨさん! ミチヨさん! ごめんなさい。遅くなりましたぁ」


 眉を寄せた困り顔の笑顔で声を掛けるとミチヨさんは柔和にゅうわな笑みを浮かべてゆるゆると首を振る。日常が一気に戻って来たような気がして、千晶の口から思わず安堵あんどの溜息が漏れた。


「はがね!」


 振り向くと男の子が顔を上げて彼女に向かって叫んでいる。6歳と聞いていた割にはさらにつたない口調だが、声の大きい元気な子のようだ。はがね、とはなんのことだろう。ママでもお母さんでもなく、彼女の名前とも思えなかった。


 しかし、もう千晶にはなんの関係もない。彼女は身振り手振りを交えながら静かな声で語りかけている。その時初めて、彼女の穏やかな微笑ほほえみを見た。そして彼女たちの、聞くことのできなかった暗い境遇きょうぐうを思って胸が痛んだ。


 千晶は杖を突いて立ち上がるミチヨさんを待ってから、ゆっくりと車に向かって歩き始める。大らかな性格のミチヨさんは男の子についても、ただ可愛い良い子とだけ話していた。車に戻って助手席に座らせるとドアを閉めて、運転席へ回って乗り込みエンジンをスタートさせる。今日はまだ他に送迎の依頼を受けている。早く老人ホームへ送り届けなければならない。


 パーキングブレーキを解除する前、ミチヨさんは千晶を呼び止めて自分のバッグを開ける。そして、いつもお世話になっているあなたに渡す物があると、小さなカエルのマスコットを取り出して見せた。ソーラー電池で頭を振る玩具おもちゃで、その白い腹には『無事かえる』と筆字でプリントされていた。前にも一度もらったことがあるが、不慮の事故で失っていた。千晶は大袈裟おおげさに驚くと両手で受け取って深く頭を下げる。今の自分には何よりも心がけたいことだった。


 顔を上げると助手席の窓から病院が見える。今にも雨が降り出しそうな曇天どんてんの午後だった。


 得体えたいの知れない何かに追われ続けている、彼女と男の子の姿はもうどこにもなかった。


(おわり)

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走る■■が彼女を殺りにくる 三浦晴海 @miura_harumi

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