第4話

【9月20日 午後1時18分 国道25号線(名阪国道)】


 千晶はとっさに唇を噛んで叫び声を抑える。運転に集中しているお陰でパニックを起こさずにこらえられた。


 目の前にあの女がいる。額の半分をへこませて、左目を失った眼窩がんかから血の涙が噴き出している。いきなり現れた理由は一つしか考えられない。赤い車が事故を起こした直後に、ありえない跳躍力ちょうやくりょくでこの車に飛び移ってきたのだ。


「何? なんなのこいつ!」


「お、落ち着いてください、千晶さん。運転に気をつけて!」


 隣の彼女も声を上げる。当然ながら彼女も狼狽ろうばいしているが、それでもまだ千晶よりは冷静に状況を見極みきわめていた。


「ここでまるのは危険です。速度を落とさずに走り続けてください」


「だってゾンビだよ! ゾンビが私の車にくっついているんだよ!」


「ゾンビではありません。ひどい見た目はさっきの事故で傷ついただけです」


「バケモノなのは一緒だろ!」


 千晶は恐怖を振り払うように叫ぶ。女は開いた両手でフロントガラスにしがみついている。まるで運悪くウィンドウに貼り付いてしまった虫のように、走る車の風圧と慣性かんせいによって押さえつけられていた。


「あなた、本当に何者なの? なんでこんな奴に追われているの?」


「千晶さん、振りほどけませんか?」


 彼女は質問には答えず指示を出す。千晶はハンドルを素早く切って車を蛇行だこうさせるが、しがみついた女は離れない。割れて爪を失った十本の指をフロントガラスと天井の縁に引っ掛けて体を繋ぎ止めていた。筋張すじばった白い首を異常に伸ばして、逆さまになった女の片目が車内を見回している。まぶたほおが自然と下がっているせいか、その表情は満面の笑みを浮かべているように見えた。


 ごんっと、女が頭をフロントガラスに打ち付ける。


 首をらして頭を引いてから、勢いよく顔面を落とす。両手がふさがっているのでそうするのか、女はみずからが傷つくのも構わずに何度も頭を振り下ろした。そのたびにハンドルが取られるほどの振動が車内に伝わる。直視できない千晶の正面にも血が飛び散り、ばさりばさりと髪が叩き付けられる。フロントガラスが割り抜かれるか、女の頭が首からもげて飛んでいくか。どちらにしても悲惨な結末を予感した。


「もうやめてよ! 全然離れない! どうしたらいいの?」


「千晶さんは運転を続けてください」


 隣の彼女はそう言うと、足下に置いたトートバッグから何かを取り出す。ちらりと目を向けると20センチほどの黒い棒で、つかの付いたナイフのように見えた。しかし刃のように見えた銀色の部分を握ると三段階に伸張しんちょうして長い金属の棒になった。


「何それ? 何をするの?」


 千晶は尋ねるが彼女は無言のままシートベルト外すと、助手席側のウィンドウを全て下げる。強風が車内に入り込み、車のエンジン音とタイヤの音が一気に大きくなった。それに混じって猛禽類もうきんるいの鳴き声のような甲高かんだかい音が聞こえる。屋根の女は振り子運動のように繰り返しフロントガラスに頭を落とし続けていた。


 彼女がウィンドウからするりと身を外へ出した。


「馬鹿! 危ないから戻って!」


 千晶がハンドルを握り締めて叫ぶ。彼女は頭も体もウィンドウから外へ出て、かかとを縁に置いて爪先つまさきだけで姿勢を保っていた。停車している車ではない。山間の下り坂を猛スピードで駆け抜けている途中だ。バランスを崩せば車外へと投げ出されてアスファルトに叩き付けられるだろう。


 鈍い音とともに、血まみれ女の左手が前方の視界から消えた。


 女が右に転がって千晶の真上に倒れるのを気配で感じる。彼女が先ほどの武器で女の腕を叩いて左手を引きがした。しかし右手の指はまだフロントガラスの上に引っかかっている。女は片腕の指先だけで車にしがみついていた。


 千晶は目を見開いて見えない恐怖にあらがう。今、私にできることは、車の速度を落とさず安定を保つことだけだ。一度、二度、重い物が当たる衝撃音が耳に届く。彼女があの怪物を殴っているのか。それとも、まさか彼女が襲われているのか。左を見ても彼女の膝より下までしか見えない。その上がどうなっているかなど想像できる余裕もなかった。


 その彼女の右足が呼びかけるように二回振られた。


「千晶さん! 思いっきり右に!」


 彼女の声が聞こえるなり、千晶は反射的にハンドルを切る。クォンっと犬がえるような音がタイヤから聞こえて、フロントガラスから怪物の右手も消えた。


「山の棲処すみかへ帰りなさい!」


 叫び声とともに彼女の爪先が持ち上がる。その瞬間、後方を映すルームミラーに女の姿が見えたと思うと、あっと言う間に道路を超えて左側の木々の向こうへと消えていった。地形から想像するとその先は深い谷になっているだろう。あとはもう、車の走行音の他にはなんの音も聞こえなくなった。


 少し間がってから、彼女が体を車内へと滑り込ませる。それから慌ててウィンドウの縁に付いた土を払った。


「す、すいません。車を汚してしまって……」


「……だ、大丈夫なの?」


「はい、もう引き剥がしたので」


 彼女は、ほうっと息を付いて金属の棒を縮めてトートバッグにしまう。護身用か、こんな時のための武器なのか。千晶の頭には金棒かなぼうという言葉が思い浮かんだ。


「あの女、落ちていったよね? あなたが、その、殴って」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃないでしょ! もし死んでたとしたら、あ、あなたは……」


「死んでいませんし、人間でもありません」


 殺人犯、と千晶がつぶやく前に彼女は否定する。


「あの赤い車の男の人も、きっと無事です。もうパトカーも救急車も来ているでしょうから戻る必要もありません。煽り運転を受けていたのはこの車のほうです。千晶さんは何も悪くありません」


「そう、だね……」


 迷いのない言葉に千晶は何も言い返せない。恐らく彼女は、これまで何度もこんな目にっているのだろう。


「じゃあ、もう病院へ帰ってもいいんだね」


「お願いします。こんな遠くまでお付き合いいただきありがとうございます」


「……先に窓をいて、車を洗ってからだけど」


「あ、私もお手伝いします」


「当たり前でしょ!」


 安心して気が抜けたせいか千晶は思わず顔をほころばせる。隣の彼女は唇をむすんでうなずいた。

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