第3話
【9月20日 午後1時9分 国道25号線(
名阪国道は大阪と名古屋を結ぶ高速道路の間に設けられた自動車専用道路で、その道路状況も高速道路に
開通当初は有料道路にする議論もあったが、結局は無料のまま運営されることとなった。道は奈良の
千晶は名阪国道に入るなり車を一気に加速させる。高速道路ではないため最高速度は60キロか70キロに制限されているが、先の事情もあってほとんどの車がそれ以上の速度で走行していた。ましてやこの追われている状況でのんびり走っているわけにはいかない。後ろの赤い車も離れることなく
「ここで振り切って病院へ引き返すよ。悪いけどあとは自分でなんとかしてよね」
千晶はハンドルをさばきながら短く返す。
「わ、分かりました。すいません、私のために……」
彼女は
「あなたじゃない。子供のためだから」
いきなり人の車に乗り込んで逃げろと騒ぎ、警察へも行くな、事情も聞くなという彼女に同情する気はない。しかし子供まで狙われているなら放ってはおけない。どんな理由であっても、小さな子供を傷つける奴は敵だ。それだけは決して譲れない信念として持ち続けていた。
片側二車線の広い道で前方の車を次々と追い抜いていく。嘘か
「後ろの奴ら、普通じゃない」
千晶はルームミラーに視線を移しながらつぶやく。車の運転に自信はあるが、赤い車も離れず後ろを追いかけてくる。しかしその
「オープンカーのルーフも閉めずに、あんな危なっかしい運転で……怖くないの?」
「怖くないんだと思います」
彼女は振り返ることなく返事する。まるで背後の様子が全て分かっているかのような口調だった。
「あれは、人の命をなんとも思っていないんです」
「おかしな薬でもやってるの? あの男は」
「男の人ではありません、女の人のほうです」
「女?」
千晶はアクセルとブレーキを踏み換えながら再び背後を窺う。パーマ頭の男がハンドルを握って暴走する赤い車の助手席に、うつむいた女の姿が見えた。フロントガラスを避けて回り込んだ強風を受けて、長い黒髪が無数の蛇のように
その時、女がすぅっと顔を上げた。
「危ない!」
千晶はとっさにハンドルを切って車を曲げる。危うくカーブを曲がり
一瞬、顔を上げた女と目が合って意識を奪われてしまった。いや、いくら近づいていたとしても、そこまで見えるはずがない。ましてやルームミラー越しに覗いていた。目が合うことなどありえない。それでも、あの女がこちらに向かって不気味な
「私を追っているのは、女の人です。男の人はたぶん
「どういうこと? あの女、
「いえ、もっと恐ろしいものです」
彼女はそう言って口を
「……あの男、本当に怖がっていないと思う?」
「そう思います。むしろ幸せを感じているはずです。私を見つけて、女の人の役に立てるので」
「もうこの車しか目に入らないって?」
「そうです。だから決して離れる気はありません」
「それなら、逃げ切れるかもしれない」
千晶は左目の端でルームミラーに写る赤い車を捕らえたまま、前方に続く道路の先を見
「あなたがどんな怖い目に
視界の先には鬼の角のように鋭角に尖った右カーブが見える。この道路が高速道路に指定されず、制限速度が厳しくなった理由のひとつだ。サイドミラーを見回しても他に車の姿は見えない。この車と、後ろに付いた赤い車の二台しかない。周囲の車は全て追い越し、次の
「車を振り回すから気をつけて」
「振り回す?」
「追いかけてこい!」
千晶はアクセルを踏みしめてカーブに向かって加速する。後ろの車も逃げられまいとさらに速度を上げてきた。彼女は口を閉じて両手でシートの端を
その瞬間、ハンドルを右に切るなりブレーキペダルを踏み、同時にパーキングブレーキを引き上げた。
後輪をロックされた車が
オートマチック車によるサイドブレーキ・ドリフトだ。速度を落とさずにカーブを曲がるにはこの方法しか思いつかなかった。
「大丈夫? どこもぶつけてない?」
「へ、平気です。目が回って……」
「後ろは?」
千晶はルームミラーで素早く背後の景色を見る。ちょうどその時、ほぼ同じ速度でカーブに進入した赤い車が曲がりきれず側面の壁に激突していた。ガツンと、重い音が鳴り響いて赤い車が停止する。その景色もみるみる遠ざかって見えなくなった。
「やっぱりぶつかった。そんなスピードで曲がれるわけないでしょ」
「千晶さんは曲がれるんですね」
「大丈夫かな、あいつら……」
側面とはいえ猛スピードで壁に衝突したら無事ではすまない。ましてや赤い車は天井を外したオープンカーだった。運転していた男も心配だが、助手席にいた女はもっと悲惨だ。勝手にこの車を追いかけて、後ろで
突然、頭上の天井に重い
「な、何?」
千晶は慌てて視線を上げるが見えるわけでもない。何か降ってきた。鳥にしては音が大きい。落石があるような場所でもない。前方を見ても後方を見ても空には何も存在しない。後ろの道路にも何も落ちていなかった。
「来ました」
助手席の彼女が短く声でつぶやく。ごり、ごり、と何か大きなものが動くような音が車内に鳴り響く。千晶はハンドルを強く握って正面を
「何? 何が来たの? どこから来たの?」
「後ろの車……オープンカーだったのは、そういうことだったんです。天井がなかったのは、このためだったんです」
「だから! 何が来たのよ!」
「……人間ではないものです」
フロントガラスの上から、血みどろの両手が貼り付く。
続けて真っ黒な髪が視界に広がると、顔の左半分を崩したあの女が逆さまになって現れた。
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