第2話

【9月20日 正午12時53分 国道169号線】


 病院を出た先の道は奈良市と和歌山県の新宮しんぐう市を結ぶ国道169号線で、このまま南へ進めば天理市、桜井さくらい市、橿原かしはら市へと向かう一般道となっている。片側一車線は脇道や交差点が多いため速度は出せないが、渋滞もなくほどほどに流れていた。


「どういうことなの? 逃げろとか殺されるとか!」


 千晶は正面のフロントガラスに向かって叫ぶ。助手席の彼女は体をひねって振り返り、不安そうに後方を確認していた。


「すいません。巻き込むつもりはなかったんですが。私もいきなりだったので……あの、できるだけ早く、遠くへ逃げてくれませんか?」


「追ってくるの? 警察へ行けばいいの?」


「警察は駄目だめです。どうか通報しないでください」


「なんで? 一体何があったの?」


「……事情は、言えません」


「あいつらはなんなの? あなたとどういう関係?」


「分かりません。初めて会った人たちなので」


「はぁ?」


 千晶は眉をひそめて声を上げる。彼女の置かれている状況が分からない。なぜ初対面の人間に追われているのか。しかし彼女の口調はしんせまり、嘘や妄言もうげんいているとは思えない。また、あの見知らぬ男女が勝手に車のドアを開けようとしたり、ウィンドウを殴りつけたりする態度を見ても、仲間内の遊びとは考えられなかった。


「会ったことのない人たちですが、分かるんです。雰囲気というか、匂いがするから……」


「なんの匂いよ?」


「腐った土のような……人間とは違う匂いです。私には分かるんです」


「私には分からないよ! それで、どこで下ろせばいいの? 逃げるのは勝手だけど、私、仕事中だから。また病院へ戻るよ」


「私も同じです。私も病院へ戻らないといけないんです。こんなところで下ろされても困ります」


「じゃあどうすればいいの?」


「どうしましょうか……」


 彼女は体を戻してうなだれる。見知らぬ敵の匂いが分かると言っていたが、千晶は彼女から厄介者やっかいものの匂いを感じ取っていた。車に興味がありそうなので声をかけて、親切心から仕事の内容などを説明してみたが、関わってはいけないタイプの女だったかもしれない。何かトラブルを抱えているのは分かるが、こんなことまで付き合う義理はなかった。


「……あの人たちがこの車を追いかけてきて、見失ってくれたら良いのですが」


「そんな都合良くいくと思う?」


「可能性はあると思います。私を地の果てまでも追って殺す気ですから」


「だから、なんでそんなに恨まれているの? あなたは……」


 その瞬間、左上のルームミラーに何か不自然に動く影が見えた。


 後ろを走る車の三台ほど向こうに、赤いオープンカーが炎のようにゆらゆらと揺れて前の車をあおっていた。


「何か、来てる。後ろに……」


「え?」


 彼女は再び身をよじって後ろを振り返る。千晶は無意識のうちにアクセルを深く踏み始めていた。


「……来ました。あの人たちです」


「ど、どうするの? まる?」


「駄目です。停まらないで! 逃げてください!」


「だからどうやって!」


 道は車が詰まり気味で満足にスピードが出せない。一車線なので赤い車もすぐには追いつけないが、このままでは逃げることもできなかった。そうしている間にも後ろの車の一台が煽られて嫌気いやけが差したのか、交差点を左折して視界から消える。運転席にいるパーマ頭の男と、助手席で長い髪をなびかせる女の姿がはっきりと見えた。


 千晶は左側のポケットの中でスマートフォンが振動するのを感じる。素早く取り出して確認すると、病院へ送り届けた客からの着信だった。リハビリを終えて病院を出たが、ドライバーも車の姿も見えないので電話をかけてきたのだろう。同じくポケットに入れていたハンズフリー用のイアホンマイクを取り出すと、左耳に装着して応答ボタンをタップした。


「もしもし、千晶です。ミチヨさんですね。リハビリは終わりましたか?」


 千晶は前方の道に注意を向けつつ会話する。付き合いの長いこの女性とは、【ミチヨさん】【千晶ちゃん】と互いに名前で呼び合っていた。


「いつもより少し早く終わったんですね。ああ、いえ、今私は病院にはいません。ちょっと他の用事を済ませていて……はい、できたらそのままお待ちいただけたら。いいですか? すいません、なるべく早くに戻りますので……」


「貸してください」


「え?」


 いきなり助手席の彼女が千晶の耳からイアホンマイクを抜き取り自分の右耳に装着する。


「もしもし、突然申し訳ございません。今、病院におられますよね?」


「ちょっと! あなた何してんの?」


「はい、千晶さんではありません。え? そ、そうです。お友達です。それで、あの、つかぬことをおうかがいますが、近くに小さな男の子は見かけなかったでしょうか? 6歳の子で、服装は……あ、そう、そうです。その子です。その子をちょっと預かっていただけますか?」


 彼女は右耳に手を添えて少し頭をかたむけながら早口で話し続ける。千晶は彼女のほうと、走る車の正面と、ルームミラーに映る後ろの様子を繰り返し見回していた。


「そうですか。ありがとうございます。迎えに行くから待っているようにと、ゆっくりと伝えていただけたら分かるはずです。ええ、大丈夫です。さっしのいい子なので大人しくしているはずです。はい、千晶さんと一緒に迎えに行きます。それでは、失礼します」


 彼女はそう言って深く頭を下げると、右耳からイアホンマイクを外して溜息ためいきをついた。


「良かった、無事でいてくれて……」


「よ、良かったじゃないでしょ。あなた、私のお客さまに何言ってんの?」


「すいません……とっさに思いついたもので、電話をお借りしました」


「借りたんじゃなくて奪ったんでしょうが!」


「お返しします。助かりました、千晶さん」


「気安く呼ばないで!」


 千晶は彼女の手からイアホンマイクをもぎ取ってポケットに入れる。滅茶苦茶だ。この女は危険だ。大人しそうな顔して、突然とんでもない行動をとる暴走女だ。ミチヨさんがのんびり屋で心優しいお婆ちゃんだからまだ良かったが、他の高齢者を病院で待たせる上に仕事を言い付けるなど考えられなかった。


 と、そこで千晶は彼女が電話で語った言葉を思い返した。


「……あなた、子供がいるの? 病院に?」


「はい……ちょっと体調を崩したようなので診察を受けていました。私も付き添うつもりだったのですが、一人でいいと」


 彼女は深刻そうな声で返す。6歳の男の子。母親だとは思わなかったが、別におかしいことではない。千晶にも7歳になる息子がいた。


「まさか、その子も狙われているの?」


「たぶん……どうやら気づかれてはいないようですが」


「どうして……」


「千晶さん、後ろ!」


 彼女の声を聞いてルームミラーに目を向ける。背後にはいつの間にかあの赤い車が迫っていた。千晶はかされるようにアクセルを踏んでスピードを上げる。しかし先に見える信号はちょうど赤色に変わったところだった。


「まさか、ぶつけるつもり?」


「それくらいのことはすると思います」


「そんなの困るよ! 今度また事故ったら、私絶対クビになる!」


「前にも事故を起こしているんですか?」


「ああ、もう!」


 千晶は赤信号の交差点へ入ると勢いよくハンドルを切って左折させつする。


「千晶さん、赤信号ですよ!」


「いいの! ここは左折可させつかだから!」


 【左折可】の道路標識は、赤信号でも安全を確認できれば左折が許可される交差点を意味している。主に渋滞の緩和かんわを目的に、交通量に極端な差のある交差点や、道路事情から見て右から進入する車がまれな交差点に設けられていた。


「奈良の道には多いの。停まれないなら曲がるしかないでしょ」


「駄目です。後ろの車も付いてきました」


「分かってるよ。だから信号のない道へ行くんだよ」


 道はやがて高架こうかを上がって自動車専用道路の名阪めいはん国道へ進入する。千晶は深呼吸をするとハンドルを握り直してアクセルを強く踏み込んだ。

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