走る■■が彼女を殺りにくる

三浦晴海

第1話

【9月20日 正午12時42分 市立若草わかくさ総合病院】


 あの人、何をしているんだろう?


 芹沢千晶せりざわちあきは病院の入口近くに設けられたベンチに腰かけて、ハーブティを入れた水筒を片手に駐車場のほうを見つめていた。


 今にも雨が降り出しそうな曇天どんてんの午後。奈良の盆地にまだ蒸し暑さが残る9月下旬のことだった。ひっきりなしに車が行き交う駐車場に一人の若い女がたたずんでいた。


 女の顔はよく見えないが、立ち振る舞いから28歳の千晶とそう変わらないように感じられる。グリーンのキャップを被って薄手のコートを羽織はおり、茶色のスニーカーをいていた。早々はやばやと秋らしさを取り入れたコーディネートだが、病院の駐車場で見かけるにはいささか不釣り合いで、日常から離れた旅行者のようにも見える。やや大きめの黒いトートバッグを肩からげているところからもそれがうかがえた。


 不審な女は駐車している白い車の後ろに立って、腰を曲げてじっと中を覗き込んでいる。車はやや後ろに長いコンパクトカーで、側面には『福祉輸送車両(限定)きたまちケアタクシー』と大きくプリントされていた。老人ホームなどの介護施設の入居者が、通院や買い物などの送り迎えに利用する介護タクシーだ。病院に駐車していても不自然なことは何もなかった。


 千晶は水筒をバッグにしまうと、やおらベンチから立ち上がって駐車場へ向かう。女は何かを察知さっちしたかのようにちらりとこちらに顔を向けたが、すぐにまた車のほうへと戻った。千晶のほうも面識がないと分かったので挨拶あいさつを交わす気はない。何か困っているのか、悩みでもあるのかと話しかけるほど親切でもない。問題は、彼女が見ている車が自分の車だということだった。


「どうかしましたか?」


「あ、いえ……」


 近くに寄って声をかけると彼女は驚いたように顔を上げる。それから千晶の服装、えり付きの半袖シャツにチノパンを身に着けた介護関係者らしき姿をあらためて見て、納得したように会釈えしゃくした。


「……この、車の人ですか?」


「そうです。さっきからずっと見ていたようですけど、何かご用ですか?」


「別に……いえ、こういう車をあまり見たことがなかったので、どういう物なのかと思って」


 彼女は静かな声で返答する。ショートの髪型と大きな目にはやや幼さが感じられるが、服装や声の低さはやはり同じ歳くらいの印象がある。ほぼノーメイクで、どこか挙動不審きょどうふしんな態度は気になるが、特に悪意のある人物には見えなかった。


「介護タクシーです。主に老人ホームの高齢者を送迎しています」


「ああ、それで病院の送り迎えに」


「病院だけとは限りませんが、それも多いです。今日もお客さまがここで定期のリハビリを受けられるのでお送りして、終わるまで待っているところです」


 市内の老人ホームに入居する83歳の道下みちしたミチヨさんは、半年前に階段で転倒して腰を骨折してから歩行が少し不自由になっていた。リハビリは毎回2時間のプログラムが組まれており、千晶はその待ち時間に昼食を済ませたり他の依頼先へ向かって送迎をこなしたりすることが多かった。


「……どなたか、タクシーを利用されたい身内のかたがおられるんですか?」


「そういうわけではないんですが……」


「それなら、なぜ車を?」


「……こういうお仕事って、大変ですか?」


「仕事?」


「ドライバー募集中と書いてあったので」


 彼女はおずおずとリアウィンドウのすみを指し示す。そこには【ドライバー募集中・女性大歓迎】のステッカーが貼られていた。どうやら依頼者ではなく就職希望者だったようだ。


「介護タクシーのドライバーになりたいってことですか?」


「それはまだ……さっきこの車を見つけたので、そういうのもあるのかなと思って。仕事は探しています」


「そうですか。まぁ、楽ではありませんがやり甲斐がいはあると思いますよ」


 千晶は気軽な口調で返す。ようやく彼女がこそこそと車の様子を窺っていた理由が分かり少し安心した。


「運転は好きですか? 免許証は持っていますよね?」


「持っています。運転は日常生活程度ですが」


「運転できるなら充分です。二種免許は採用が決まったあとでも取れますから。ただ一般のタクシーと違ってお客さまのお手伝いをすることは多いかもしれません。高齢のかたや障碍しょうがいを持っておられるかたが多いので。介護士の経験や資格はあったほうがいいかも」


「一応、経験はあります。資格はまだ初任者研修ですが。それと前に病院の看護師をしていました」


「え、看護師さんですか? この病院の?」


「いえ、別の病院です。数年間勤務していました」


 彼女は緊張気味に回答する。看護師と介護士は異なる資格だが共通する部分も多く、看護師の資格を取得するには介護分野の知識と経験も必要となる。病院に勤めていたとなると、一通りの実績も積んでいることだろう。


「元・看護師さんなら私よりも介護に慣れているでしょうから心配ないですね」


 千晶の返答に彼女は静かにうなずく。看護師が介護タクシーのドライバーへの転職を望むというのも珍しいが、何か事情があってのことかもしれない。いささか内向的で大人し過ぎる気もするが、真面目に黙々と仕事をこなしそうなところは好感が持てた。


「この車、後部座席がないんですね。お客さまは助手席に?」


「そうです。後ろには車椅子が搭載できるようになっています。せっかくなので中もちゃんと見ますか?」


「いえ、そこまでは……」


 千晶はポケットの中でリモコンを操作して車のドアロックを解除する。かつて自分もこんな風に、ふとした機会に誘われてこの仕事にいた思い出がある。彼女がどこまで本気で転職を望んでいるかは分からないが、邪険じゃけんに扱うよりは親切に接するべきと考えていた。


 その時、彼女は急に言葉を止めて背後を振り返った。


「ん?」


 千晶もつられて振り返る。整列する車の間をって、二人の若い男女がこちらに向かってゆっくりと近づいていた。男はパーマをかけた頭にスカジャンとジーンズ姿で軟派なんぱな雰囲気を出しており、女は前髪を切り揃えたロングの黒髪にネイビーのトップスと明るいベージュのスカートを身に着けている。どちらも見覚えはなかった。


「車に、乗ってもいいですか?」


 彼女は遠くの二人を見つめたまま尋ねる。心なしか先ほどよりも緊張しているように見えた。どうしたのだろう。千晶が答える間もなく彼女はドアを開けて助手席に乗り込む。千晶も続けて運転席に入った。


「エンジンをかけてください」


「エンジン? どうして? さっきの人たちは……」


 その時、こちらに訴えかける彼女の背後に、先ほどの女がぬっと顔を出す。助手席側のウィンドウの向こうだ。色白で目が細く、やや頬の膨らんだ顔している。こけし人形のような微笑を浮かべつつ、こつこつと遠慮気味に窓をノックした。


「誰か、呼んでいるけど……」


「エンジンをかけて! 早く!」


 彼女は切羽詰せっぱつまった声を上げてドアノブのボタンを押して鍵をかける。千晶は反射的にエンジンのスタートボタンを押して車を始動させた。ボンネットの中から音が鳴り始めて車内の空気が振動する。外の女が驚いたように少し身を離した。


「ねぇ、一体どうしたの? 知り合いじゃないの?」


「後ろ!」


 気配を感じて振り返ると、ウィンドウの向こうで男の顔が間近まぢかに迫っていた。モップのような髪の下で、どこか焦点の定まっていない目を向けている。薄くひげをたくわえた口元が動き、開けて、開けてと短くつぶやくのが聞こえた。


「え? なんですか……」


「窓を開けないで!」


 助手席の彼女が叫んだので、ウィンドウのボタンにかけた手が止まる。次の瞬間、男がいきなり外から車のドアを開けた。千晶は慌ててドアグリップをつかんで阻止する。


「ちょっと何? 何してんの?」


「開けて、開けて、いいから、いいから、開けて、そっちの女を出して」


 男は何度もつぶやきながらドアを開けようと力を入れる。何かおかしい。さっぱり事情は分からないが、男の強引さは普通ではない。両手でドアグリップを握る千晶の手に汗がにじむ。背後から固い音が聞こえたので振り返ると、助手席側の外にいた女もロックの掛かったドアを開けようと外側の取っ手を何度も引いていた。


「やめて! 壊れるじゃない!」


「車を出して! お願い!」


 助手席の彼女が訴える。千晶は、はぁ? と返した勢いでドアを閉め直してロックをかけた。


「何言ってるの? 車を出せって、どこへ行くの? なんなの? あなたたちは……」


「どこでもいいから、とにかく動かしてください! 早くここから逃げてください!」


「逃げて? でも外の人たちはあなたを出せって」


「捕まったら殺されるんです!」


 どんっと女がウィンドウを拳で殴りつける。ノックではない。本気で叩き割るような力強さだ。千晶は慌ててサイドブレーキを解除すると、シフトレバーを【R】に切り替えて車を後退させる。再び拳を打ち付けようとしていた女は勢いのまま空振りしてその場に倒れる。男はとっさに体勢を戻して車の隣に付いてきた。


「開けて、開けて、いいから、いいから、ちょっとでいいから、おい、開けろ、さっさと開けろよ、てめぇ、女を出せよ、早く出せよ、女を出せよ……」


「何? 何? 何? 何?」


「病院から逃げて! 男を追い払って!」


 千晶はシフトレバーを【D】に切り替えてアクセルペダルを踏む。がくんっと車が揺れて男がドアから手を離した。そのままハンドルを切って駐車場を巡り、敷地内から一般道へと飛び出す。右側から急ブレーキの音が聞こえるとともに、けたたましいクラクションがこだました。


 分からない。何も理解できない。だが確実に恐ろしいことが起きている。千晶は謎の彼女を乗せたまま急いで病院をあとにした。

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