心の中に溜まったガラクタを一つ一つ丁寧に分別していくような

谷川人鳥

僕は大丈夫



 あなたは何をされたら怒るのかと、私はよく訊かれる。

 人にされて嫌なことは他人にしてはいけないと、そう教わってきた。

 でもこれらの問いや教訓は、私の世界に気づきをもたらすことはなかった。


 私の言葉が意図的に聞こえないふりをされても、怒りを覚えることはない。

 なぜなら初めから私は期待していないから。

 鳥に声をかけて、無視されたからといって憤慨する人はいないのと同じ。

 人はいつだって、期待を裏切られた時に怒りを感じる。

 だからもう、私が何かに対して怒りという感情を抱くことはきっとない。

 私はすでに、この世界に失望しきっているのだから。

 

 私が誰かにされて嫌なことはあるだろうかと、時々考えてみる。

 だけどいつも、何も思い浮かばない。

 ならば私が他人にしてはいけないことなんて、何一つない。

 私は自分のことを楽観的な人間だと思っているけれど、他人は悲観的になるなと勝手に慰めてくる。

 私の人生を訳知り顔で悲劇だと称する他人は多いが、どちらかといえば喜劇に近いと思っている。

 認識の差は、考え方の差で、どちからが間違っているわけじゃない。

 この世界の問いが私に何の気づきももたらさないように、私の気づきはこの世界にとってどんな教訓にもなりえないのだろう。


「……それでは、美月くんは、県外の国公立大を受験するということで、よろしいですか?」


「はい。それが美月の希望ですので。親としては、少し心配なところもありますが、本人の希望は優先させてあげたいと思っています」


「そうですか。わかりました。それではこちらも、そのような認識でこれから指導を行っていければと思います。美月くんは成績が良いので、私立でしたら指定校推薦も検討できましたが、そちらの方は今のところ考えていないということですね?」


「はい」


「わかりました」


 口を噤んだままの私の代わりに、父と担任の山下先生が私の将来について話し合っている。

 三者面談とはいっても、事前に私の意思は二人ともに伝えてあるし、正直なところ、私がわざわざここに来る意味はなかったのじゃないかと思っている。

 だけど理由を想像することはできる。

 私と父のように、何でも話し合えるような親子関係がどこにでも成り立っているわけではない。

 だから、こうやって教師と親と子が共通の認識を持っていることを確認する機会が必要なのだろう。


「それで、あの」


「どうされました?」


 私がほとんど言葉を発していないことを除けば、それなりに滞りなく進んでいった私たちの面談は、もうほとんど終わりといってよかった。

 現時点でこれ以上話すことはあまりない。

 しかし山下先生は、まだ何か言いたげそうに、父と私の方へちらちらと視線をいったりきたりさせている。

 室内にも関わらず、キャペリンと呼ばれるコサージュの付いたツバの広い帽子を被って、臙脂色のワンピースを着込んだ、涼やかな服装の父は、とくに何かを言うわけでもなく、山下先生の言葉が出てくるのを急かさずにゆっくりと待っている。


「……美月くんは、大丈夫ですか? 普段と変わるようなところは、ありますか?」


「はい。大丈夫です。美月は強い子なので。なあ、美月?」


 それが本当に訊きたかったことなのかは、わからない。

 心の中に渦巻く別の疑問を、わざわざ私が拾い上げる必要もないだろう。

 きっと彼女の心配そうに揺れる瞳の中の私は、悲劇に暮れる弱々しい被害者に仕立て上げられている。

 だけど、私が、その間違いを指摘することはない。

 事実、それが間違いかどうかを決める権利は、私にはない。

 私が何を考え、何を感じているのか想像するのは、彼女の自由なのだから


「……はい、僕は大丈夫ですよ、山下先生」


 濃紺のブラウス姿の山下先生に、私は短く言葉を返す。

 それは、正真正銘、心からの言葉だったけれど、彼女にとっては思春期の子供の精一杯の強がりに思えているかもしれない。

 だけどその事を訂正する権利も、必要性も、私にはないとやはり思ってしまう。


「もし、何か心配事があったら、いつでも相談してね。受験のことでも、それ以外のことでも」


「わかりました。ありがとうございます」


 まるで実感のこもっていない感謝の台詞を最後に、私は席を立つ。

 そんな私に合わせるように父も腰をあげ、丁寧に一礼をしてから、にこやかに儀礼的な笑顔の交わし合いを行って教室を出る。

 人気のない廊下には、乾燥した空気だけが漂っていた。

 音もなく歩く私の少し後ろで、ぺたぺたと父が独特の間隔で足音を鳴らすのが聴こえてくる。


「優しそうな人だったな、山下先生」


「そうだね」


 山下先生は三年間、ずっと私のクラスの担任だった。

 だけど父が彼女と会うのは今日が初めてだ。

 それはこれまでずっと、面談や学校行事に顔を出すのは母の役目だったから。

 ワンピースのスカートの裾をひらひらと揺らしながら、父は廊下の窓からグラウンドを眺めている。

 土埃が六月の空に舞い上がっていく景色をぼんやりと見つめながら、父は何か物思いに耽るように目を細めていた。





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