麻婆春雨



 お天気お姉さんが梅雨明けを口にした覚えはないけれど、ここ最近は晴れ間が続いている。

 三者面談を終えた日の帰り道、久しぶりに父と二人で並んで住み慣れた街を歩く。

 普段あんまり意識をすることがないけれど、父は身長が170cm後半あって私よ10cm以上高いので、こうやって歩幅を合わせるとなんとなく大きいなと感じる。

 そのスタイルの良さも相まって、見た目だけなら完全に綺麗な女性、良い言い方をすれば美魔女といった容姿をしているので、父は結構目立つ。

 だから昔から、私は父と一緒に外を歩くのが、苦手だった。


「美月、今日の夕ご飯は何がいい?」


 外見とは違った、嗄れた低い声で父は不意に話しかけてくる。

 自動車の行き交う道路脇には、夜の12時まで営業しているこの辺りでは一番夜更かしのスーパーが見えた。

 まだ母が家にいる頃から、料理は父の役目だった。

 母が言うには、結婚するまでは、母の方が料理を振る舞うことが多かったらしい。

 でも、私が覚えている限り、母がまともに作った料理はやたら甘いフレンチトーストの一品だけ。

 あの時、どうして母は私にフレンチトーストを作ってくれたんだっけな。

 まだ二十年も生きていないのに、もう思い出せないことが増えてきた。


「麻婆春雨がいい」


「ははっ。美月はいつ聞いてもそれしか答えないな」


 何が食べたい、と父に限らず聞かれることがよくあるけれど、私はいつも麻婆春雨と答えるようにしている。

 べつに、呼吸代わりに春雨を啜りたがるようなフリークなわけじゃない。

 本当は、なんでもいい。

 食べたいものなんて、特にない。

 これは強がりとか、実は食べたいものがあるけど推測して欲しい察してちゃん、とかそういうんじゃなくて、本当になんでもいい。

 昔から食にあまり興味がない私は、好きな食べ物も嫌いな食べ物もほとんどない。

 だけど、なんでもいいって言うと、不満そうな顔をする人がどうして私の周りには多かったので、とりあえず麻婆春雨って言うようにしている。

 なんで麻婆春雨なのかというと、それには特に意味はない。

 しいて言うなら、語感が好きなだけ。


「じゃあ、俺はスーパー寄ってくけど、美月はどうする? 先帰るか?」


「うん。そうする」


「つれない息子だな」


「まあ思春期だからね」


「ボーイズビーアンビシャスってことか」


 大志はおろか小さな志すら持ってない私は、軽く手を振るとそこで父とは別れて一人先に帰路につくことにする。

 ほんの少しだけ寂しそうな顔をする父に背中を向けて、私は逃げるようにアスファルトを蹴る。


 勘違いはして欲しくない。


 私はべつに、父が嫌いじゃない。

 

 あまり私とは似ていない涼やかで、今っぽい整った顔立ちは素直に綺麗だと思うし、穏やかで知性を感じさせる性格だって尊敬している。

 むしろ、私は父が結構好きだ。

 女装癖っていう奇特な趣味だって、べつに個性の一つ。

 悪いことだとは思わない。


 でも、ただ、外で、他の人の目がある場所で一緒にいたくないだけ。

 どうしても、父のその外見はよくも悪くも他人の目を惹いてしまう。

 まるで女優のような見た目から、野太い声で喋る人がいれば、誰だって二度見や三度見はする。


 それが、苦手なだけ。


 私はとにかく、目立つのが、誰かの視線の先に自分がいるのが、不得意で仕方がなかった。

 街路樹の陰に隠れて、日差しに目を伏せて、私は足早に誰もいない家を目指す。

 自意識過剰なのはわかってる。

 でも、苦手なものは、苦手だ。

 父には悪いけれど、あの人と同じ空間にいることは、私にとって耐え難い苦痛だった。

 


『逃げないでよ、美月。あたしを、一人にしないで』



 ふと、私とそっくりな一重の黒目に、責められた気がした。

 遠くから匂う、土が浮き足立つような、雨が降る直前の気配。

 六月の下旬は、天気が変わりやすい。

 私は、気配が確信に変わる前に屋根の下に逃げ込もうと、信号を走り渡って、道幅の狭い住宅街に入り込む。

 そこから二分も経たずに、私の家が視界に入ってくる。


「あ」


 だけど視界に入ってきたのは、見飽きたレンガ色の一軒家だけじゃなかった。

 肩先まで伸びた、空色としか形容のできないような透き通るスカイブルー。

 起きているのか、寝ているのか、半分程度だけ開けられた瞼から覗く色素の薄い茶色の瞳。

 全体的に平坦で、はっきりした顔立ちではないのに、なぜか印象的な相貌。


 瞳を奪われる。


 そんな陳腐な言葉が頭に浮かぶ。

 私と私の家を結ぶ一本道の真ん中に、すっと立つ一人の女性。

 知らない人だ。

 それなのに、知りたいと、無意識のうちに思ってしまう人。


 湧き上がる奇妙な感情の正体に名前をつけられないまま、私はほんの数秒間、その人を見つめていた。



「君、私と一つ、賭けをしない?」



 ふわりと、その女性は笑った。

 想像していたより、うわずった、女性らしい柔らかい声だった。

 最初、自分が話しかけられたのだと、理解できなかった。

 

「君、お母さん、いないでしょ」


「……え?」


 その女性は、靴底がやけに分厚いサンダルで、私の方へ一歩近づく。

 私はそれに合わせて、靴底のすり減ったローファーを一歩分後退させる。


「私との賭けに勝ったら、君のお母さんを返してあげる。ただし、負ければ、二度と会えない。どう? 君は賭けに乗る?」


 母は、たしかに、もういない。

 私と父を置いて、どこか知らないところに消えた。

 でもドラマチックで悲劇的な、お涙なしでは語れない感動の別れを果たしたわけじゃない。

 ギャンブル中毒の大学生と不倫をして、そのまま家出をしただけ。

 ただ、それだけだ。



「それは正直、どっちでもいいです」

 

「……へ?」



 数秒前までのミステリアスさが台無しになるような間抜け声。

 どうしてこの人が、私の家庭事情を知ってるのか、気になることはあるけれど、それより前に、とりあえず認識の齟齬を正しておかなくちゃいけない気がした。

 

「母が戻ってこようと、二度と会えなかろうと、どっちでも、なんでもいいんですよ、僕は」


 正直言って、その唐突な賭けに、乗っても、乗らなくても、どっちでもよかった。

 その賭けに乗るかどうか聞かれて、あえて答えるとしたら、麻婆春雨って私は答えたいくらい。


 


 

 


 

 

 

 

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