賭け事
「え? まじ? お母さん戻ってこなくもいいの?」
「はい。どうでも銀でも金でも構わないです」
その女性の右耳には黒のピアスがぶら下がっている。
形は勾玉に似ていて、どこかエキゾチックな雰囲気。
ああいった装飾品の類に興味や憧れは実はあるのだけれど、地味で控えめな性格のせいでまだ手を出せないでいる。
それにきっと、この人全く同じピアスを私がつけたところで、こんな風に煌びやかで蠱惑的な印象を他人に与えることはないだろう。
「へぇ。面白いじゃん。もしかしてそれ、はったりだったりする? お得意のポーカーフェイス?」
「いや、僕、ポーカーのルールすら知らないですよ。インディアンポーカーならわかりますけど」
「ふーん。そうなんだ。じゃあ、今私の額にはどんな数字が書いてある?」
「なにがじゃあなのかよくわからない」
「ほら、目を凝らしてみて。見えてきた?」
「んー、視界不良です」
「ほらほら、がんばって」
「あ、見えたかもしれません」
「どう?」
「110、って書いてあります」
「いや通報すな」
何が面白いのか、女性はクスクスと笑う。
まったくもって不平等を感じる。
自宅の前で、謎の女性に声をかけられて、母親を返してあげるからと賭けを持ちかける。
性別が反対だったらまず間違いなく事案でしかないけれど、悔しいが向こうはうら若き女性で、私はただの無愛想な男子高校生。
勝ち目はない。
「うん。うん。いいねー。私、君のこと気に入った。めっちゃ気に入っちゃった」
「それは困りますね」
「賭けがしたい。どうしても君と賭けがしたい」
「いよいよ変態が隠し切れてないですね。ここまでくれば、ワンチャン僕でも司法で勝てるかもしれない」
カケカケケラケラ、うるさい人だ。
でもどこか憎めない可愛らしさが、初対面にも関わらず感じられる。
結局は私も母の子供ということか。
変わり者のギャンブル中毒者に目をつけられ、それを上手く断れないでいる。
血は争えない。
カエルの子はカエル。
トンビが産んだ鷹の子は種違いというやつだ。
「いいじゃん、いいじゃん。もし君がお母さんがどうでもいいなら、賭けを断る理由もないってことでしょ? 勝っても負けても、君に損はない。なら、賭けるしかないっしょ!」
「いやいや、そうはならないでしょ。勝っても負けても得はしないなら、普通賭け事はしないと思うんですけど」
「ちなみに賭けの内容はいたってシンプル。君もきっと喜ぶよ」
「わあ、全然他人の話きいてないこの人」
会話が成り立たない。
頭が痛くなってきた。
この謎の賭け狂いとのコミニュケーション不良のせいか、あるいは気圧のせいか。
どっちでもいいけれど、早く家に帰りたいことだけは確かだった。
「賭けの内容はね、一ヶ月間、私と暮らして、私に惚れないこと」
「……は?」
綺麗な白い指を一本たてて、その女性は悪戯っ子のように笑う。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……誘拐?」
「ううん。私が君の家に住む」
クエスチョンマークが脳みその皺という皺の間に挟まって、フロスを使っても取れそうにない。
湿気った空気を肺いっぱいに吸い込んでも、混迷した頭は明瞭にはならない。
ただでさえ、私はそこまで頭が良いわけではない。
これ以上、この容量不足著しい小さな脳みそを酷使させないで欲しい。
「私に惚れないこと?」
「そうだよ、君、私に惚れるべからず。君が惚れなければ、君の勝ち。お母さんは君の下へ戻ってくる。君が私に惚れてしまったら、君はもう二度とお母さんとは会えない」
彼女は目を細めて、私の分厚い心の壁の脆弱性を探しているような瞳をしていた。
この人の言っていることは支離滅裂だ。
ロジックも、公平性も無視して、道理のわからない賭け事を私に強いている。
「……惚れたかどうかの確認は、どうやるんですか」
「決まってるじゃん。自己申告だよ」
「それ、僕が嘘ついたら、終わりません?」
「何言ってんの? これはギャンブルだよ。嘘つかなくてどうする」
ああ、そうか。
私は、そこで、やっと気づく。
ただ、この人は、賭け事がしたいだけ。
きっと、それ以上でも、それ以下でもない。
「……あ、雨」
ぽつり、と零れたのは私の声と空からの一滴。
ついに崩れた天気模様。
すぐそこに家があるのに、やけに遠く思える。
ぼんやりと立ち尽くしたままの、そんな私の手がふいに引かれる。
「さあ、賭けを始めるよ」
想像していたより、暖かい掌。
数秒毎に勢いを増していく六月の雨の下、私は知らない女性に手を掴まれ、自分の家に引っ張られていく。
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