我が家



「ただいまー!」


「……そこはお邪魔してください」


 ぱっぱっと、服についた水滴を簡単に払うと、自宅のような気軽さで、その人は靴を脱いで我が家に上がった。

 物珍しさそうに玄関を見渡すと、まるで犬のように鼻をくんくんとさせた。


「思ったより綺麗なお家だね」


「何を思ってたのかは知らないですけど、うちは父が几帳面な人なので」


「へぇ、そうなんだ。なんかあんまり私と気合わなそうだな」


 というか、今更だけれど、この人、本気でうちに一ヶ月も住む気なんだろうか。

 冷静に考えて、色々と障害がある気がする。

 この人にだって家族はいるだろう。

 もし捜索願とか出されていたらどうしよう。

 私はまだしも、父とか誘拐犯で捕まってしまうんじゃなかろうか。


「あの、本当にうちに一ヶ月間も住むんですか?」


「うん? そうだよ? そういう賭けでしょ?」


「怒られないんですか?」


「誰に?」


「ほら、その、親とか」


「そんな子供じゃないんだから。それに私、一人暮らしだし」


 子供じゃないのは見ればわかるけれど、そもそもこの人って何歳くらいなんだろう。

 真っ青な髪色と控えめだけれどそれなりに整った顔立ちのせいで、私とそれほど変わらないような年齢にも思えれば、私とひと回りくらい離れているような気がしないでもない。

 喋り方が若いから、さすがに父とかの年代にまでは行かないと思うけれど、正確なところはわからない。


「あの貴方って、何歳なんですか?」


「女性に年齢聞くとか正気? 教えるわけないじゃん」


 なぜかドヤ顔で、嬉しそうに彼女はそう言う。

 どうやら教えるつもりはないらしい。

 

「というかその貴方って言い方。かたっ苦しいからやめてよ」


「だって、名前知らないですし」


「私は君の名前知ってるのに?」


「え? 知ってるんですか?」


「知ってるよ。美月くんでしょ?」


 こわ。こわすぎる。

 どうして私の個人情報がだだ漏れになっているのだろう。

 それか、この人、もしかして私の知り合いとか親戚か何かなのだろうか。

 私は母と父の親戚のほとんどあったことがない。

 父方の祖父母に二度顔を見せに行ったことがあるだけだ。


「もしかして出身、千葉の方だったりします?」


「は? なんで?」


「私の父が、千葉出身なので」


「あー、なるほどね。そういう読みか。ううん、違うよ。私と君は、血とか繋がってないよ。だから安心して惚れるといい」


 ライトブラウンの瞳を揺らして、その人は笑う。

 なんというか全体的にチグハグな人だと私は思った。

 明るい口調、くだけた話し方なのに、どこか落ち着いた雰囲気。

 言ってることは道理がなってなく、無計画で考えなしなわりに、知性を感じさせる眼差し。

 感情表現が乏しいタイプには思えないのに、何を考えているのかわからない。


「変な、人ですね」


「唐突なディス。もしかして美月くんって、実はけっこう毒舌キャラ?」


「べつに悪くいってるつもりはないですよ。ただ素直に思ったことを口にしただけで」


「なるほどね。つまり私に心を開きつつあるってことか」


「むしろ疑念が深まってきたところです」


「決めた。名前はアンティにする」


「アンティ? なんの名前ですか?」


「決まってるじゃん。私の名前だよ」


「え?」


「アンティ。私のことはアンティ・ポーカーって呼んで」


「絶対本名じゃないですよね」


「ん? 本名だよ? かっこいいでしょ」


「思いっきりさっき決めたって言ってましたよ。確実に今さっき思いついた名前じゃないですか」


「言ったっけ? きっとそれはブラフだよ」


「どんなブラフの使い方ですかそれは」


  自らをアンティ・ポーカーと自称するその人は、真っ白な歯を見せて笑う。

  向こうは私の名前を知ってるのに、こっちはわけのわからない偽名しか知らない。

 もうすでにこのギャンブルはフェアじゃない気がしてきた。


「そんなことよりなんかお腹すいた。軽く食べれるものないの?」


「信じられないくらい図々しいですね」


「冷蔵庫どこ?」


「うちに冷蔵庫ないです」


「嘘つけ。こっちかな」


 そのままアンティさん(仮名)は、リビングの方に勝手に歩いていく。

 考えるのに疲れてきた私は、大きくため息を一つ吐いてから、その華奢な背中を追う。


「でも本当に、よく片付いた家だね。というか物自体が少ない」


「まあ僕も父も、散らかす方じゃないんで」


 フローリングの廊下を抜けて、翠色のカーテンが閉められたリビングの真ん中でアンティさんはきょろきょろと周囲を見回している。

 母がある日買え変えてきた四十型の薄型テレビ。

 その前には黒漆の机が一つと、エル字型ソファー。

 窓とは反対側の壁に並ぶ本棚には、母の趣味だった純文学小説がところせましと並んでいる。

 父曰く、この本たちの約半分くらいは、本棚から取り出されたところを見たことがないらしい。


「ここに、美月くんが選んだものって、何かあるの?」


「え?」


 ふいに投げかけられた質問の意味を、私は咄嗟には掴めない。

 私が選んだもの。

 数秒遅れて、言葉の中身が頭の中に入ってきた私は、ゆっくりと周囲に視線を泳がしてみる。

 空っぽのフルーツスタンド。

 羽根がないタイプの扇風機。

 中米っぽい木彫りのよくわからない置物。

 真っ赤な冷蔵庫。

 どれもこれも、私が選んだものじゃない。

 べつに、私が欲しいものを両親に何も買ってもらえないような生活をしていたわけではないのに、ここには、家族の共有スペースには何もない。

 全部、自分の部屋にしか、置いてないみたいだ。


「ここには、ないかもですね」


「……そっか」


 そんな私の返事を聞いて、どうしてかアンティさんはとても寂しそうな顔をした。

 空調は切れたままなのに、やたらと乾燥して冷たく感じる部屋。

 ざあざあ、と外の雨が強くなってきたのか、打ち付けるような音がする。

 そこでやっと私は、まだ部屋の電気をつけていないことに気づいた。


「今、君はここを、我が家って感じるの?」


 縋るような、祈りにも似た瞳で、アンティさんは私を見つめる。

 整理整頓された、私の私物が何ひとつない部屋。

 帰ろう。帰ろう。あったかい我が家に。


「感じますよ。他に家とか、知らないし」


「美月くんは、消去法で我が家を選ぶんだね」


 それはべつに責めるような口調ではなかった。

 ただの、呟き。

 でもそれが今の私には、勢いを増すばかりの梅雨の音より、よっぽど迷惑に感じてしまった。

 



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