夜の海



「ねえ、今から海に行かない?」


 人の気配で、目が覚める。

 自室のベッドで横たわる私は、視線の先にある明るい茶色から目を逸らして、枕の隣りにあるスマホを手に取る。

 時刻は深夜1時を過ぎた頃。

 窓から差し込む光が、月なのか街灯のものなのか、この寝そべった角度からはわからない。


「……ここ、僕の部屋ですけど。寝る部屋間違えてますよ」


「知ってる。というか寝にきたんじゃなくて、起こしに来たの」


 水色のサラサラとした髪の毛先が、顔に当たって鬱陶しい。

 なぜか私のことを覗き込むような体勢のアンティさんを押し除けるようにして、とりあえず上半身を起こす。


「今から、海、行こうよ」


「まだ六月ですけど」


「あはっ。まず突っ込むとこそこ? 普通の時間の方でしょ」


「たしかに。そうですね。ではお言葉通り明日も朝早いんで無理です」


「大丈夫。朝までには戻ってくるから。というかそのまま学校に送ってあげるよ」


 勝手に私のベッドに腰掛けるアンティさんは、動く気配がない。

 少し探りを入れながら様子を見ていたけれど、多分、これ本気で言ってるな。

 冗談であることを期待していたのに、面倒なことになった。


「なんで今からなんですか?」


「今、行きたくなったから」


「もう電車ないですけど」


「私が車、運転するよ」


「え? 免許持ってたんですか?」


「当たり前じゃん。そもそも、美月くんのところまで車で来たんだから、免許持ってないとおかしいでしょ」


 何も当たり前じゃないし、おかしいところだらけ。

 大体、車で来たっていうのも初耳だし、年齢も住所も知らない。

 アンティさんは私のことをよく知っているのに、私はこの人のことをよく知らない。

 何だか、不公平な気がしてきた。


「よく言えばミステリアス。悪く言えば不審者ですね」


「なんだよいきなり」


「いや、アンティさんについて、知らないことがあまりにも多過ぎて」


「じゃあ、教えてあげるよ」


「え?」


「夜のドライブに付き合ってくれたら、私のこと、教えてあげる」


「べつに知りたいとは言ってませんけど」


「この天邪鬼」


 アンティさんは、むすっと唇を尖らせる。

 本当に、不思議な人だ。

 よく喋る方で、感情も豊か。

 それなのに、内面が全く見えてこない。

 これまで会ってきた誰よりもフレンドリーなのに、これ以上踏み込ませない見えない壁がある。

 近いようで、遠い。

 遠いけど、すぐ近くまで駆け寄ってきてくれる。

 手を伸ばせば届きそうだけれど、なんとなく肩が重い。

 この人から見て、私はどれくらいの距離にいるんだろう。


「なら、私が教えたいから、付き合ってよ」


「教えたい? 何をですか?」


「私のこと。私のことを、美月くんに、もっと知って欲しいの」


 どうしてですか、とさらに聞こうとして、そこで私は口を噤んだ。

 それは、アンティさんの瞳を真正面から覗きんでしまったから。

 知りたい、と思うことはあっても、知って欲しいと思ったことは、私にはない。

 だから、それはほんの少しだけ興味のある感覚だった。



「それに私も、美月くんのこと、もっと知りたいしさ」



 私のことを、もっと知りたい。

 それはありがたいお言葉だけれど、天邪鬼な私は素直に受け止めきれない。

 だって、いきなり深夜にドライブに誘うことには繋がらない気がしている。

 自分のことを教えて、私のことを知るために、夜の海に向かうことには因果関係がない。


 暖房も冷房もついていないエアコンに見下ろされながら、私はもう一度アンティさんの瞳を覗き込む。

 掴みどころのない、淡い眼差し。


 それはまるで夜の海のようで、距離感が掴めない。 

 見ただけじゃ、熱も、冷たさも、感じない。

 浅いのか、深いのか、波が荒れているのかもわからない。


 朝になったら、わかるだろうか。


 この家から一番近い海がどこかなのか、私はそれすらも知らなかった。


 

 

 

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