私らしさ
良くも悪くも、時間は止まらない。
総代と幾らかばかりかお喋りをした後は、あまり学校での今日の記憶が存在しない。
というのも、基本的に私の一日は、他の人より密度が低い気がしてならないのだ。
感情の起伏も私はそこまで薄いというわけでもないが、長持ちしないという特性がある。
嫌な気分になったり、怒ったり、逆に嬉しい気分になった時は分かりやすく表情に出たりするけれど、それもすぐに収まっては薄まって消える。
これが長所なのか、短所なのかはわからない。
少し前に総代から、白樺は感情的なわりにドライだよなと言われたことを今でもよく覚えている。
「あ、おかえりー、美月くん」
氷が溶け切ったアイスティーのような一日を揺らしながら、家についてやけに重く感じる扉を開くと、からっとした鈴に似た爽やかな声が私に届く。
普段は廊下とリビングを仕切っている扉は閉められていない。
奥から、にょきっと顔を出すアンティさんは、正体不明の居候とは思えない気軽さで私に手を振った。
この人は、気まずいとか、ないんだな。
感情が長引かない私でも、今朝しでかしたことは覚えている。
瞬間的に、なぜか無性にアンティさんに腹が立った私は、何を思ったか突然彼女のTシャツを捲り上げた後、無言で逃走している。
冷静に考えて、中々に思春期で誤魔化せない暴挙な気がする。
どうしてあの時、あんな行動を取ったのか、あれほど感情的になったのか、今の私はもう思い出せない。
一応、謝っておくべきだろうか。
なんて、玄関でぼうっと突っ立ったまま言い淀むを私を見て、アンティさんは若干不機嫌そうな顔でこう続ける。
「ちょっと、美月くん。ただいまは?」
「え? あ、はい。ただいま」
「それでよし。礼儀は君を守るよ。傷つきやすそうな君のことは、特に」
「僕って、そんなに繊細に見えますか?」
「見えるよ。まるでお手本だね。繊細くんってあだ名で呼ばれてても、違和感ない」
「そのあだ名、絶対繊細な人につけちゃダメなやつですね」
私の言葉に、たしかに、と言って笑うアンティさんは、そこで伸ばしていた首を引っ込めて顔を隠す。
鮮やかな水色の軌跡を追うように、私はそこでやっと靴を脱いで自宅に足を踏み入れる。
リビングに向かう前に、洗面所に寄り、液状タイプのハンドソープで手を洗う。
キャロット色をした粘液を両手に馴染ませ、爪と爪の間にも泡が入り込むように入念に手を揉む。
人間は、清潔すぎる環境に慣れてしまうと、免疫力がかえって落ちるという話を聞いたことがあるが、あれを私は嘘だと思っている。
なぜなら、もしその理論が正しければ、現代よりよっぽど衛生観念の低かった昔の人たちは、とても免疫力が高いということになる。
だけど、実際はどう考えても現代人の方が病気関係にはかかりにくくなっていると思う。
そもそも、綺麗な場所より、汚い場所で過ごした方が身体が丈夫に育つなんて、到底信じられない。
私たちは、そんなに強くない。
きゅっ、ずごごご。
洗面所の水を止め、排水口に流れていく水を最後まで見送った後、未使用のタオルで手の水気を拭き取る。
家庭によっては、バスタオルを何度も使ってから洗濯するというが、我が家は一度使ったらすぐに洗ってしまう。
特段、そういうルール決めを行なっているわけではない。
ただ、洗濯を担当している父が、なんでもすぐ洗ってしまう性格なだけ。
「お、やっと出てきた」
「ああ、すいません。アンティさん、もしかして順番待ちでした?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
手を洗い終えて、うがいを何度かした後にリビングに顔を出した私に、我が物顔でソファでごろごろしているアンティさんが喉を鳴らす。
なんだか、猫みたいな人だ。
まだここに来てから、一日しか経っていないのに、もうこの家に馴染んでいるような気がする。
それは、よっぽど僕よりも。
「美月くんのお母さんってさ、どんな人?」
一瞬、私の時が止まる。
普段は穏やかに、ゆったりと流れている私の時間に、歪みが走った感覚。
質問の意図を正確に推し量ろうと、視線をアンティさんに移す。
でも彼女は、私のことなんてこれっぽっちも見ていなくて、星座を目でなぞるような表情で天井を眺めていた。
「……僕のお母さんのこと、知ってるんじゃないですか?」
「まあ、知ってるっちゃ知ってるけどさ。美月くんから見た、君のお母さんの話を聞きたい」
私から見た、母。
悪い人では、なかった。
だけど、苦手な人だった。
そして同時に、一緒にいて、楽な人でもあった。
気まぐれで、感覚派。
掃除は滅多にしない。
小さいことにはこだわらず、子供っぽくて、すぐ泣いたり怒ったりするけれど、よく笑う人。
女性の中で、私が一番良く知る、人。
女性らしさという言葉を使う時、私はいつも母を思い浮かべる。
「インディアンポーカー好きで、不倫癖のある、女性。そんな感じですかね」
「……どんな感じだよそれは」
母がこの家を出てから、父は母の話をしたのは、たった一度だけだった。
あの日、父は、私に謝っていた。
どうして謝っていたのかは、覚えていない。
いや、そもそも、謝っていた理由は、言ってなかったかもしれない。
「美月くんは、もうお母さんに会えなくてもいいって言ってたよね」
「はい。会いたくないわけじゃないですけど。ただ、どっちでも、いいんです」
「じゃあさ、お母さんは?」
「……どういう意味ですか?」
続けられた、アンティさんの問いかけ。
言葉足らずな質問だったけれど、本当はどういう意味で言っているのか、すぐにわかっていた。
だけど、間が、欲しかったから、そう口にしただけ。
一呼吸、いや、二呼吸くらいは置いてくれないと、私はきっと息が持たない気がした。
「君のお母さんの方は、美月くんと、もう会えなくてもいいのかなって。そういう意味」
母は私といる時、どんな気分だったのだろう。
私を表現する時、何らしい子と、口にするだろうか。
知りませんよ、そんなの、とアンティさんに返すまでに、結局私は十を超える呼吸を必要とした。
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