正解
シトラスのような匂いがする車内。
助手席から見える深夜の街には、人より自動販売機の方が多く見える。
女性ヴォーカルの美声がゆっくりと流れる中、隣でアンティさんがハンドルを長い人差し指でリズミカルに叩く。
朝はまだ遠く、海の白波もいまだに見える距離にはない。
「ねえ、美月くん。好きなものしりとりしようよ」
これまで車内空調の快不適くらいしか聞いてこなかったアンティさんが、不意に要領の得ない問いかけをしてくる。
いつだってこの人は脈絡がない。
好きなものしりとり。
全く持って存じ上げない名称だけれど、なんとなくその中身に察しはつく。
「それ、アンティさんのオリジナルですか?」
「好きなものしりとり? まさか。国民的定番ゲームじゃん」
「アンティさんって、日本の生まれじゃなかったんですね」
私の返事にあはっ、と短く笑うと、アンティさんはじゃあ私からね、と勝手に話を進める。
長い夜になりそうだと、眠気の消えない瞼を一度擦っておく。
「最初はじゃあ、“音楽”」
「音楽ですか。僕も、好きですよ」
「聞く方?」
「え?」
一瞬、アンティさんの問いかけの意味が理解できず、思考が泳ぐ。
音楽が好き。
その言葉を聞いて、私は迷わず音楽を聴くのが好きなのだと解釈した。
でも、それはよく考えてみれば、受け身気質な私らしい偏見でしかない。
「やる方は?」
「ああ、そういう意味ですか。僕は、聞く専です」
「そうなんだ」
「アンティさんは何か楽器とかやるんですか?」
「ドラムとキーボードをたまにね」
「本当ですか? 凄いですね」
「何も凄くないよ。別に上手くないし」
「いやいや、凄いですよ。かっこいいじゃないですか」
「美月くんにしては珍しく私を褒めるね。照れるぜ」
本当に照れてるようで、飄々としている印象の強いアンティさんが、薄らと頬を紅潮させているのがわかった。
音楽を聴くのは好きだ。
だけど、自分がその音を奏でる側に行こうと思ったことはない。
ほんの少しだけ、想像してみる。
シマウマみたいな鍵盤の前に座り、自分が思うままに指を滑らせる。
一定間隔で足のペダルを踏み、心地の良い低音を響かせる。
たしかにそれは、心地よい時間のような気がした。
気がした、だけかもしれないけれど。
「聴くのも私、好きだよ。美月くんは、邦楽派? 洋楽派?」
「そうですね。あんまり邦楽洋楽で区別しているつもりはないですけど、基本的には邦楽をよく聴きますね。やっぱり、洋楽は歌詞を理解するのが難しいんで」
「歌詞? 歌詞とか聴いてるの?」
「え? そりゃ、歌なんだから聴きますけど」
「へー、そうなんだ。私は歌詞とかほとんど気にしたことないな」
「本当に音楽好きなんですか?」
「失礼な。好きだよ。本当に。でも、何を歌っているかは、あんまり気にしたことない。恋でも、友情でも、社会への不満でも、政治的思想でも、なんでもいい。何度も聞いた凄く好きな歌があっても、私はお気に入りの歌のメロディは覚えてても、歌詞は全然は覚えてないよ」
それは私からすると、不思議な感覚だった。
何度も口ずさむような好きな曲ですら、アンティさんは歌詞を意識していないと言う。
流れていく言の葉たちを、なんとなく耳で追うだけで、自分の中に残さない。
文字通り音を楽しむだけで、その音の意味を問うことはしない。
「優しい聴き方を、するんですね」
意味を問わない。
それは私にとっては、とても優しい関わり方に感じられる。
たとえ私の母が不倫をして家出をしている途中でも、たとえ私の父が女装癖でも、たとえ私が自分自身の性について違和感を覚えていても、きっとアンティさんはそれを真摯に聴いてくれるけれど、意味を問わない。
どうして。
なぜ。
こうだと思う。
こうするべき。
こうした方がいい。
答えがなくてもいいものを、まるであるかのように問いかけられるのは、好きじゃない。
正解は、なくていい。
音楽の歌詞だって、本当は沢山の解釈の仕方があるはずだ。
作詞家本人がこういう意味だって、言い切ったとしても、私はこういう意味だと思った、みたいな受け止め方の違いだって、許されてもいいと思う。
だからアンティさんの音楽の聴き方は、私にとってはとても優しく見えた。
「何それ。初めて言われた。自分では結構、冷たい聴き方だと思ってるけどね」
だけどアンティさん本人は、そんな私の感想をどこか冷たく突き放す。
信号は、青いまま。
私たちは海を探して、夜を泳ぎ続ける。
穏やかな歌声で、私の知らない洋楽は歌い続けている。
どうして夜の海に向かっているのか、顔の見えない彼女が何を歌っているのか、それはわからない。
「美月くんの番だよ」
「……ああ、そういえばこれ、しりとりでしたね」
くから始まる、私の好きなもの。
中々思いつけない私は、そこでやっと気づく。
何から始まっても、関係ない。
そもそも私は、好きなものが、あまりにも少なすぎるのだ。
「じゃあ、“クイズ、で」
「へえ、クイズ? なんで?」
「それこそ、クイズです」
「うっわ。超鬱陶しい」
私のくだらない返しに、アンティさんは優しく笑ってくれる。
クイズが好きな理由は、たった一つ。
正解が、あるから。
不正解だらけで、満足に答えを返せない私は、逃げるようにアンティさんに次のしりとりを促す。
彼女が次に答えたのは、“
聞いたことがない名前だったけれど、彼女曰く、それは神奈川県の付け根にある小さな町の名前で、そこには海があるらしい。
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