白波トップウォーター
細かい揺れが止まり、アンティさんが車のエンジンを切る。
ガラスの向こう側にはすでに、静かな夜の海が望んでいる。
「着いたよ」
ここに来るまで大体片道一時間かからないくらい。
リス園が自慢の私の地元から、それほど遠くない。
「うー、気持ちいいねぇ。やっぱり海は夜に限るよ」
シートベルトを緩慢な動作で解いて、助手席から右足を先にして降りる。
涼しげな潮風が、頬を撫でる。
砂粒がそぞろに混ざった駐車場のアスファルトの上から、白波を立てる穏やかな水面を見つめる。
深夜の海の街は、朝なんてこないみたいに静かだった。
「もっと近くに行こうよ。今なら太平洋、独り占めだよ」
「一人じゃなくて、二人じゃないですか」
「お、いいこと言うねぇ。たしかにたしかに」
いいこと、別に言ってないと思うけれど。
私の一言のどこかが琴線に触れたのか、鈴の音みたいにアンティさんは笑う。
風が吹いてくる方向に向かって、水色の髪を煽られながら彼女は緩い狭坂を下っていく。
「ほら、急ぐよ、美月くん。見つからないうちに」
「誰にですか?」
「決まってるじゃん。ポリースだよ、ポリース」
「ああ、補導か。意外にそういうの気にするんですね」
「まあ、美月くんが捕まったら困るし」
「どっちかっていうと、捕まるのアンティさんじゃないですか?」
「なんで? うち、成人してるよ」
「だって未成年誘拐犯じゃないですか。勝手に家に押し入られた挙句、寝室から車で外に連れ出されてるんですけど」
「あはっ。ウケる。それは、そう」
なに笑ってんだ。
英語の発音がやけに綺麗なアンティさんは、危機感なく口角を上げる。
この人は、怖くないのだろうか。
別に私は冗談を言っているわけじゃない。
まだ十八にすらなっていない私を連れて深夜徘徊。
補導対象というよりは、関係性を疑われる。
その時、もしアンティさんとの間柄を訊かれたら、なんて答えればいい。
だって本名すら、知らないのに。
「白樺美月くん」
私のフルネームが、潮風に乗って聞こえてくる。
気づけば、アンティさんとの距離が、離れている。
夜でも目を惹く、ライトブルーが私より海に近い。
「置いてっちゃうぞ」
「……それは困ります。僕、免許持ってないんで」
置いていかないで。
心臓のない方の胸が、僅かに痛む。
頼りない街灯から離れて、私はアンティさんの方へ近づいていく。
「私さ、小さい頃に、海で溺れたことがあってさ」
隣に並んで、同じ速度で歩き始めると、アンティさんが前を向いたまま喋り出す。
穏やかなアルトが、段々と聞こえ始めてきた波音に溶ける。
溺れている時は、どんな音が聞こえるんだろう。
「……アンティさんも、溺れることあるんですね」
「なんだよ。どういう意味?」
「いや、言葉通りの意味です。なんかそういう、何かにアンティさんが苦しんでいるイメージがなくて」
「なにそれ。私だって、苦しむよ。本当にくだらないことでもね」
深い海に底に沈んでいくアンティさんを想像する。
冷たいブラウンの瞳を、暗い水の中に泳がせ、小さな泡を口から溢しながら、穏やかに微笑んでいる。
どうしても、苦悶の表情を浮かべているこの人のことは、頭の中に描けない。
きっと、それは知らないからだ。
私は、アンティさんの泣き顔も、悩んだ顔も、怒った顔も、全部知らない。
この人のことを、何も知らない。
「溺れたあの日から、私泳ぐのが苦手になっちゃって。でも、海は好き。海は好きだけど、泳ぐのが嫌いになっちゃった」
視界が、拓ける。
砂浜には、当然のように人気がない。
思っていたよりも波打ち際は綺麗で、ガラクタはどこにも溜まっていない。
「僕も、泳ぐの苦手ですよ」
「お、気が合うね」
「でも、海も別に好きじゃないです」
「美月くんも溺れたことあるの?」
「いえ、ないです」
「じゃあ、なんで?」
「上手く泳げないから」
「上手く泳ぐ必要、あるの?」
上手く泳げないことが、海を嫌う理由にはならないと、アンティさんは言う。
一歩踏み込むたびに、砂に足を取られて、もつれそうになる。
紺色のクロックスの中に粒が混ざり、不愉快な感覚に私はうんざりする。
「……好きこそ物の上手なれ、っていうじゃないですか」
「その言葉は、好きなものは上達するのが早いって意味で、上達するのが遅いものは好きになってはいけないって意味じゃないよ」
私の思いつきの苦し紛れな言い訳を、アンティさんは聡明な言葉回しで打ち砕く。
なんか、息苦しい。
目の前に広がる海は果てがなく、どこまでも繋がっているように思える。
少しベタついた潮風に砂が混ざっていて、私は逃げるように目を細める。
「美月くんは、好きになっていいんだよ。溺れたこと、ないんだから。苦手になるのは、溺れた後でもいい」
試すような声色で、アンティさんは澄んだ瞳を私に向ける。
好きに、なってもいい。
彼女は、私に許可する。
頼んでもいない許しを、与えてくれる。
「……海を見ていると、白波トップウォーターって曲、思い出します。海は好きじゃないですけど、その曲は好きです」
ざあざあ、と白く泡立つ波。
寄せては返し、そこに終わりはない。
頭の中に、優しいテクノポップが奏でられる。
「その曲、私も知ってる。私の好きだった人が、好きだった。歌詞は覚えてないけど、メロディは覚えてるよ」
どこか懐かしそうに、アンティさんは白波を眺める。
夜の海底より深いところに、視線を注ぐ。
そんな彼女の横顔を見つめながら、私は悲しい夜が明けるのを待っている。
「好きだった。もう、好きじゃないってことですか?」
「うん。もう、好きじゃない」
苦手でも、嫌いになる理由にはならない。
そんな言葉を私に贈ったその人は、微笑みを消す。
この表情をなんと呼べばいいのか、すぐにはわからない。
「溺れるくらいには、好きだったんだけどね」
だけど今はもう、好きじゃない。
そう言葉を繋げたアンティさんの表情の呼び名を、やっと私は思い出す。
ああ、そうか、これは、泣き顔なんだ。
涙は流れていないけれど、きっとアンティさんは今、泣いている。
白波の水面に立って、苦しそうに泣いていた。
心の中に溜まったガラクタを一つ一つ丁寧に分別していくような 谷川人鳥 @penguindaisuki
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