家庭の事情
「まあ、とりあえずお茶でも出そうか。紅茶がいい? それともコーヒー?」
「え、あ、じゃあ、コーヒーで」
「はいよ。ちょっと待っててね。美月は紅茶でいいよな?」
「うん。アールグレイ以外ならなんでも」
「わかってるって」
先に驚きを胸の中に仕舞い込んだのは、私の父の方だった。
買い物袋からそそくさと食材を出して、ワインレッドの冷蔵庫の中へテキパキと放り込んでいく。
そんな父の背中を眺めながら、アンティさんは一重の瞳をぱちぱちと一生懸命揺らしていた。
「お父さん、でいいんだよね?」
「はい。ご紹介遅れました。父の孝太郎です」
「その、なんか、個性的じゃない?」
「アンティさんにそう言われると、説得力ありますね」
すご、と小さく呟きながら、アンティさんはまじまじと父を見つめ続けている。
その瞳には、どこにも嘲りや拒絶の翳りはなく、純粋な驚きと好奇の光だけが覗いていた。
彼女の父の見方は、きっと私や母とは違う。
もっと別の見え方が、しているような気がした。
「はい、お待たせ。まあ、座りなよ」
私の父は、よく語頭にまあ、とつける。
そのまあ、の響きが私はとても好きだった。
「あ、ありがとうございます」
「ありがと、父さん」
「おう、これが大黒柱ってやつさ」
果たして客人に茶を振る舞うことが、大黒柱の代表的な仕事なのかは、甚だ疑問ではあったけれど、とくに何も言わずに私はいい香りのする紅茶を受け取る。
この匂いは、たぶんダージリン。
悪くない。いい気分だ。
「それで? こちらの可愛らしいお嬢さんは?」
「なんか、家の近くでナンパされた知らない人」
「ナンパされた? したんじゃなくて?」
「父さん、僕だよ? 僕をそんなふうに育てた覚えある?」
「たしかに、ナンパするよりはされる方がまだ可能性あるか」
「ちょ、ちょっと美月くん!? なんか紹介の仕方に悪意ない!?」
ふむふむ、と納得したふうに、一人だけ常温の水を飲む父を見て、アンティさんは何が不満なのか抗議の視線を私に送ってくる。
しかし、正直に言って、私はべつにそこまで間違った説明をしているつもりはない。
もし私とアンティさんの性別が反対だったら、ちょっと珍しいタイプかもしれないけれど確実にナンパの一種だと思う。
しかも家まで押しかけてきている。かなり悪質だ。
でも、なんだか大きな問題にならない感じがしているのは、きっとアンティさんが綺麗な若い女の子で、私が冴えない男子だから。
ジェンダーだの男女平等だの、世間は最近やかましいけれど、これが現実。
性の秤が釣り合うことはない。
ただ、揺れるだけ。
右に、左に、傾いては、戻ったり、戻らなかったり、天秤は繰り返されるだけだ。
「……冗談はさておいて、この人、友達のお姉ちゃんなんだけど、なんか、色々家庭の事情で、今、家に戻れないんだって。それでなんか、うちに泊めて欲しいらしいよ」
「うちに? 友達のお姉さんか。まあ、若いと、色々あるもんなぁ」
「そ、そうなんですよ。ちょっとその、あまりに若くて、色々ありまして」
「まあ、そういう事情なら構わないよ。でも、親御さんにはちゃんと説明しておいてくれよ? 他所の家庭事情に首は突っ込まないけど、面倒ごとはごめんだ」
「はい。もちろんです」
嘘くさい真面目な表情をつくって、アンティさんは大袈裟に頷く。
どこまで私と彼女の言葉を信じたのかはわからないけれど、その女優のように整えられた顔を綻ばして、父は目を細めた。
「それに、美月が友達を家に連れてきたのは、初めてだしな」
「え? そうなんですか?」
アンティさんの探るような視線を頬に受けるが、それは無視。
香り立つダージリンを嗅ぎながら、インドにいつか旅行に行って本場の味を確かめてみたいだなんて、まるで実現する気のない夢を空想していた。
「ちょうど一部屋いま空いてるから、好きに使っていいよ。あとで美月に案内してもらって。あ、それとも、もしかして美月の部屋に泊まる気だった?」
「父さん。最近の世の中はセクハラに厳しいよ。なんでもハラスメントの時代」
「おっと、これは失敬。家賃はいらないから、訴訟は勘弁してくれ。なんてこんな台詞も、最早なんかしらのハラスメントか?」
「軽口ハラスメントだね」
「カルハラってやつか」
「そうそう、それそれ」
「あはっ。美月くんたち、仲、良いんですね」
不意に、言われた、そんなアンティさんの何の気なしの一言。
その瞬間、私と父は言葉を噤んで、互いの視線を交わす。
仲、良いんですね。
べつに、私と父の仲が悪いとは、思ってない。
だけど、いつもこうやって、一見愉快げに会話を交わしてるわけでもない。
ざあざあざあ、ごろごろごろ。
父が帰ってきたからといって、雷雨はべつに、鳴り止んでない。
本当に家族仲がよかったら、母親が不倫して家出なんてしてないだろ、とは言えなかった。
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