最終話 殺人衝動の喪失

「何人殺したの?」


 着くなりミゼはそう切り出した。小慣れた言い方だった。


 傘を振って水滴を落とす。それから丁寧に折り目に沿って巻いて止めた。


「数えてないからわからない」


 ミゼはいつも通り、道から死角となる積み重なった資材の上に座る。それに向かい合う形で俺は立っている。


「うそ」


 かすかに笑っている。その余裕がどうにも癪に触る。


「嘘じゃない」


 声が反響する。


「一人も殺してないから、わからないって誤魔化してるだけ」


 ひどく落ち着いた声が、橋下に沈む。


「ニュースを欠かさず見ているのだって自分を信じ込ませるためでしょ。見なかったら自分が何もしていないことを思い出しちゃうから」


 少し低くて落ちついた、ずっと聞いていたくなるような声で紡がれる聞きたくない言葉。脳が理解するのを拒否して、拒否するから返答が用意できない。首を振ることしかできない。


「抵抗しないからさ、今すぐ殺してよ」


 両手を広げ、目を閉じている。長い袖の先から白い指先がのぞいている。大胆に露出した長い脚が適度に曲げられて、地面に触れている。無造作のようで秩序のある髪が風になびいている。


 その様子は、どこかの宗教画のようだった。


「いつも、本気でやってなかったでしょ。今日は本気で」


 言われずとも、やってやる。


 ジッパーを開けると革の匂いが鼻につく。タオルや飲み物をかき分けてナイフを取り出す。錆の浮いた刀身に触れる。湿気でベタついている。


 早足で近づく。間1メートル。ミゼは目を開けない。口は無表情に閉じられている。


 胸元、黒いTシャツにしわがあるのがわかる。それは強い違和感をもたらした。その無秩序な痕を中心として視界が落ち着きを失う。揺れて、その確かさを失う。


 音が失われる。深い深い沈黙。


 ミゼが目を開けているのにも気がつけない。足を前に出す、と自らの体に指示を出して少しずつ前に進む。


 いつものように湧き上がる衝動は確かに胸の中にある。心拍が乱れて、息がうまくできない。なのに、あと少しの距離が詰められない。しわ一つない真っ黒な服に身を固めた完璧な彼女がそれを邪魔する。


「私を一人目にしてよ」


 否定の言葉が喉から出てこない。一人目はもうとっくの昔に、、ミゼは、何人目……何人目だ。


 ナイフを持った手をミゼが包み込むように握る。細く長い指先は見た目に反して暖かい。彼女の熱が、乾いた土に水が染み込んでいくようにすんなりと濡れた手に移った。


「どうしてそんなに怯えているの?」


 平衡状態にある二人の手を、心臓の延長線上にあるナイフを、自ら近づけようとする。数センチ近づき、数ミリだけ離れる。二、三度繰り返せば刃先が控えめにふくらんだ胸に触れる。


「こんなに錆びてると痛そう」


 のんきなことを言って笑う。強い力で自らに刃を進めながら。


「錆びてなくても痛いだろ」


 どうにか軽口を叩いて、それ以上進まないように引っ張る。薄い布の先にある白い肌から赤い血が流れるのを想像する。


「どうして引っ張るの?」


「どうしてって……」


 どうしてなのか、その理由を言語化できない。ただ引っ張らなくてはならないと、このまま胸にナイフを突き刺してはいけないと、頭でも体でもないどこかがそう言っている。


 重なった手と手、握られたナイフの柄と手の間が汗ばんで滑りやすい。ミゼの手が滑って、かかる力が弱まる。縦方向には動かないなら刃先を逸らすために横方向へと力を込める。


 刃先が胸から、腕、そして宙へ向いたとき、突き出すような格好になった肘に体重を乗せて前に押し出す。


「あっ」


 ひどく小さな音。引っ張る方向と押す方向が一致して、ミゼを地面に押し倒すことができた。


 踏ん張ることのできない地面に寝転がったミゼの手を解いて、ナイフを少し離れたところに投げ捨てた。


「意気地なし」


 形のよい耳があらわになる。穴の空いていない、丸っこい耳たぶが赤くなっている。息が上がっているのか、胸が上下する。


「自分が特別でありたいから人を殺したって思い込んでいる」


 ミゼがこちらを見上げる目に力はなく、責めるよりも自らの罪を告白するような哀しさが宿っていた。


「だって、あなたは普通の人だから」


「ナイフ持ち歩いて、知らない女の人を追いかけるなんて普通じゃない」


「それが分かるようになったら、もう、、本当に普通の人だよ」


 そう言って穏やかに笑う。綺麗すぎる笑い方で、これ以上見ていられない。


「押し倒しちゃってごめん」


 俺が上からいなくなっても、ミゼは寝転がったまま天井を見上げている。


「こうしてると雨の音がよく聞こえる」


 そう言って、目を閉じてしまう。


「わかったよ」


 俺が寝転がるまで起き上がるつもりはないらしい。


 硬い鉄板の上は雨に濡れていなくても少し湿っている。冷たさが汗ばんだシャツ越しに伝わってくる。力を抜いて、ゆっくりと呼吸をすると、涼しい風が吹いているのが分かる。


「案外気持ちいいな」


 ミゼは何も言わない。たぶん、目も開けていない。


 外で寝転がるのなら河川敷か公園の芝生の方が適しているのだろう。けれど、俺たちにはこんな放置された工事現場の、時折会話を邪魔する電車が通る高架下の、雨の日の、冷たい鉄板の上が心地よかった。


「あなたの過去は死んで、土の中に埋まってる」


 暗い昏い森の中。いつでも土が湿っている木々の間に掘られた穴の底で体を丸め、汚いリュックサックを抱えた自分を想像した。


「どうせ埋まるなら、この鉄板の下がいいな」


「そういう話じゃないから」


 電車が近づいてくる。


「似たもの同士だと思ってたんだけどなあ」


 真上を通過する。轟音。


「似てるだろ、俺たち」


 似たもの同士は引かれ、会う。


「……似てないよ。私は最初から壊れてるから」


「いや、だから、」


「あなたは……愛とかそういうのを知らずに育っただけの普通の人」


「育った環境が悪いのはお互いだろ?」


 親も教育者もいない。食事のこと、寝ることだけしか考えていなかった頃の話。


「その過去をちゃんと乗り越えてる」


「ミゼのおかげでな」


「私は、何もしてない」


 少し掠れた声が、そっと耳に入る。視界の大部分を占める灰色のコンクリートを焦点を結ばずに漠然と見やる。濁ってしまって何も写らない鏡のようだ。目の前にいることもわからない、どこかで見た鏡。


「なあ、俺のこと殺したいか?」


 細くて柔らかな雨音が空白にそっと色を塗っていく。


 長い長い時間をとって、ミゼが体を起こす。真っ黒の背が砂でまばらに白く汚れている。周りを見渡して、手を伸ばすのを上を向いたまま目で追った。


 ミゼが下腹部のあたりにまたがる。ナイフを逆手に持ち、胸の前で握っている。上から見下ろされる構図は投げ飛ばされた後にミゼが近づいてくるときと似ていて、既視感がある。


「本当は殺したかったけど、殺されるのも悪くない。今はそう思う」


 手を広げる。錆びた鉄板のざらついた感触が肘を乱暴に撫でる。


「だから、おもいきりやってくれ」


 見下ろすような目つきがいつもよりも優しいような気がする。表情がほとんどないからほんの少しの変化を見逃さないようにしようとしてきたおかげかと過去を振り返って思う。


 暗くて深い、大きな瞳の中に小さな光がある。


 腕だけでなく、上体ごと前に倒れてくる。体重が乗っている。軽い体重が。


 距離が近づく。さらに近づく。ナイフの刃先はもう視界から外れた。目のすぐ下にある涙ぼくろが黒ではなく暗い茶色であることがわかる。胸の中央、一点に感覚が集中する。体温でずいぶんとぬるくなった鉄板に冷たさが戻る。




「殺したいけど……殺されたいから殺せない」


 滑り落ちた髪の先が顔に触れ、それから離れた。


「ちょうどいいじゃん」


 腕をついて体を起こす。それと同時にミゼが上から降りて、体が軽くなる。熱のこもった下腹部に冷えた風が当たる。長いこと寝転がっていたせいで腰と肩が痛む。


「互いに殺し殺される関係でいればいい。過去も殺して、未来も殺して、今だけ生きていればいい」


 ミゼが言ったように俺の過去が死んで、土の中に埋まっているのなら、俺がミゼを過去を殺して、その肢体に刃を通して、きちんと埋めてやろう。どうでもいい未来は殺し、殺されたい。一緒にいるのってそういうことだと思うから。


「なんか、、痛いね。でも……」


 その先につながる正しい言葉を探すように中空を見つめている。同じ場所を見つめてみる。答えは遠く、高架の下と工事現場の黄と黒の看板に切り取られた雨の中にあるのかもしれない。


「でも、わるくない」


 左耳に髪をかけながら、そう言った。俺にしかわからないぐらい微かに笑いながら。


「私、本当におかしいよ。それでもいいの?」


「ああ。殺しがいがあって最高だね」


 雨は降っているのに、陽が差して明るく外を照らしていた。艶やかなベールを纏った世界がすぐそこにあって、それを飽きもせずに眺め続けた。






     *

 天気予報を見れば今日一日の天気をほぼ確実に知ることができる。けれどそれでは面白くない。知らない方が面白いこともたくさんある。曇り空、雨の気配はない。けれど、降り出すことを祈って傘を持った。


 送ったまま返事が来ないのトークルームを開く。既読がついているといろいろと考えてしまう。ミゼは返事を返すのが遅い方ではないし、既読だけつけておくということもしないということはこの三日間のトークで分かったつもりでいる。互いに暇だったから。途方もない時間を持て余していた。


 昼前に着くには余裕があるのだが、歩く速度は早くなるばかり。まとわりつく湿気も気にならなかった。


 十一時過ぎ、まだついていないだろうと思って入ったことのない雑貨屋にも入ってみた。猫っぽいから猫の何かを買おうかと思ってやめた。犬派だったら、渡された猫が報われない。


 かなり広い施設とはいえ、店を見て回らなければ全てを見終えるのに三十分もあれば充分だった。ミゼはいなかった。近くにいていることに気づけないことなんてあり得ないことだった。まだ着いていないのかと思って、施設の外周を回って、それからもう一度施設内をくまなく歩き回った。五感の全てでミゼを探した。


 汗をかいたシャツをあおぎながら、最後の店の前で立ち尽くす。ポケットの中で、一切震えないスマートフォン。『昼前にはいる』というメッセージは確かにそこに残っていた。いつもの場所しか残っていなかった。


 雲が一面を覆っている外を早足で歩いた。少なめにした朝食を消化し終えた腹が刺すように痛む。底の厚いスニーカーは歩きづらい。


 角を曲がる。


 今日も今日とて工事は行われていない。網目の間から中を覗いても、三日前と全く変わっていない。寝転がっていた部分の色がわずかに褪せているような錯覚を覚えた。


 いないならいなくていい。体調が悪いのかもしれない。


 道から死角になる、いつもの場所だけが残っていた。



 そこにミゼは倒れていた。



 眠っていてほしかった。


 羽織った上着がはだけて、右肩が露出していた。


 スマートフォンを握っていた。


 息をしていなかった。


 腕に触れた。


 まだ、柔らかくて、つめたかった。


 画面には血の跡が残っていて、何かを入力していたようだった。それを見るにはロックを解除しければいけなかった。内側のカメラにミゼの顔を写せば見れたのだけど、俺はそうしなかった。この穏やかな顔を誰にも見せたくなかった。

 内容もそのあとを見れば大体予想できた。見たくなかった。


 彼女の姿は、何度も俺が想像した通りだった。でも、それに嬉しさも高揚も、哀しさも切なさもなかった。一呼吸するとそこから湧いてくるような塊があった。憎悪だった。殺した奴への憎悪。ここらで起こった殺人事件の犯人を皆殺しにすればいいと思った。すべて、把握している。


 カバンの中を無意識に探った。ナイフは入っていなかった。


 衝動なんて言葉よりも重たい、想像上の質量を持った憎悪だけがあった。楽しくもない。興奮もしない。ただただ存在する最悪の殺意。これだけの思いがあっても、俺は俺がミゼを殺した犯人を殺すことはできないことを分かってしまった。ミゼが俺を普通にしてくれたから。殺しを嗜好し、肯定する俺は土の中に埋まって、腐敗してしまったから。


『ごめん』


 何も謝ることはないと言うこともできなかった。言い逃げされた。


 ミゼはここにおいておくことにした。俺以外、探さないから。


 惹かれあってしまった殺人者との別れだった。


 引かれ会ってしまった殺人者との別れだった。


 初めて見る、白いTシャツに赤が滲んでいた。


 雨の匂いがした。

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刹那的殺人衝動の喪失 明日乃鳥 @as-dori

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