第2話 変革の兆し

 東京でも鳥のさえずりが聞こえる。体の痛みに耐えながら、硬い硬い布団から這い出る。


 やらなければいけないことがある。


 全財産の入った財布を持ってまだ夜の冷気が残る街に繰り出した。若者の街まで歩いて二時間。人通りがあまり多くないのが不思議だった。ガラス張りの入り口近くまで行ってまだ開店していないことにようやく気がついた。人が少ないわけだ。


 駅前のベンチでリュックサックを抱えて時間を潰した。アスファルトに吸い殻とガムがへばりついていた。


 ようやく開店したので店に入ってみる。服の匂いなのか変な匂いがする。


「何かお探しですか?」


 若い店員が声をかけてきた。やめてほしい。細められた目が迷惑だから出ていってくれと言っている。何も迷惑はかけないのに。


「これとか、かわいいですよね」


 桜色のカーディガンを持ち上げて広げて見せる。そんなものが似合うわけがないだろう。


「ああ、はい」


 自由に見て回りたかったのだが、ちらと見た値札の桁が一つ多かったため、そそくさと店を後にした。こんなに高いのかよ。


 どこの店も最初の店と同じだけ高そうで、入る前に逃げた。ようやく聞いたことのある量販店を見つけて入る。店員も声をかけてこないし、値段も手が届く。マネキンのワンセットを買って八千円。格安のハンバーガーで腹を満たしてから二時間の家路についた。金が底をついた。


 いつも通り報道番組をみる。


 町工場で小規模な火災、東北で起きた一家心中、花粉増加の兆し、小学校での学級閉鎖。どれも関係がなかった。


 シャワーを浴びて目を閉じる。暗闇の中でミゼの黒一色の服装を思い出す。笑顔なんか見たはずもないのに、瞼の裏の彼女は笑っていて、その白い肌に赤を加えてから眠った。


 買った服に着替える。ジーパンに白色のパーカー。それだけでは寒いので着古したジャージを羽織って外に出た。向かう先はあの埋立地。暗くなるまで隈なく歩いたがミゼには会えなかった。同じ空間にいるだけでわかるはずだった。お決まりの報道番組の時間前に着くように離脱し、十七時ぴったりに帰宅し、慌ててテレビをつけた。


 3台が絡む交通事故、インフルエンザの流行、男性の刺殺体。刺殺体という言葉に息が詰まる。


 四十代の男性が海岸にうち上げられているのを散歩中の高齢男性が見つけたしい。海岸には行ったことがないし、そもそも海は好きじゃない。さらに言えば今のところ男を殺したいと思ったことはない。


 なんとか陽気なBGMが流れ始める時間まで耐えた。ほっと胸を撫で下ろす。俺の犯行は見つかっていない。


 眠ろうとして、ミゼの「ダサい男に……」という言葉を思い出して、シャワーを浴びた。あの目と言葉はなかなかに効く。


 それから毎日あの商業施設の周りを歩き回ったがミゼには出会えなかった。水曜、木曜、金曜、土曜と何ごともなく終わってしまった。それでも胸の奥底に溜まった熱のような殺意は消えていない。そうして前回会ってから七日後の日曜日に再び出会うことになる。


 

 人の波に流されるまま、3階フロアを歩いているときに、爆発的に心拍数が上がった。内臓が口から出てきてしまいそうなほどの圧力だ。


 それから多くの人が視界に映るように忙しなく周囲を見回すと先週と同じ、黒のロングコートのミゼを見つけた。ミゼは店に入るわけでもなく、しばらくフロアを歩き続けた。唯一立ち寄ったのは2階の角にあるペットショップだった。動物は苦手なので入るのを少し躊躇ったが、人がたくさんいたので意を決して中に入った。清掃の行き届いた店内でも獣の匂いがする。


 ほとんど表情を変えない彼女が少しだけ穏やかそうな顔をした気がする。胸がざわつく。思考が飛躍する。かわいい小型犬に吠えられて現実に引き戻される。むき出しの牙が、見開かれた目が、獣であることを思い出させる。昔から通りすがるだけで吠えられるのだ。俺を世界の異物だとわかっているらしい。


 明らかに俺に向かって吠え続けるので、周りの人々がこちらを向く。三秒もすれば周囲の人々は興味を失って、またケースの中の小さな獣たちに甘い目を向け始める。そんな中で残る視線が一つ。無表情に見つめているようで挑戦的、そして蠱惑的な瞳だった。

 

 

「大学生みたいな服」


 放置された工事現場の中で開口一番にそんなことを言われる。言葉が出ない。


「まだ私を殺したい?」


「もちろん。でなきゃ探したり、ついてきたりしないよ」

 言葉を続けてくれて助かった。会話に慣れていないので変な間が生まれるのは気まずくて耐えられない。


「探してくれてありがとう。もしかして昨日も来てた?」


「そりゃあね。俺はとてもとても殺したくて、たまらないんだよ」


「そこまで重いと気持ち悪い」


 寒さを思い出したように腕をさするような動作をする。


「私、日曜日しかここ、いないから。それ以外は来ても意味ないよ。その間に自分磨きでもしな?」


「自分磨きって……そんなに殺される相手の身なりが気になるのか?」


「今のあなたみたいな男に殺されたら、殺された後の私がいたたまれないから」


「そんなにひどいかな、俺?」


「最悪」


 一日一度は最悪と言う決まりでもあるかのように口にした二文字が強く脳裏に焼き付く。


「まあ、なんとかしてみるよ。今日殺せなかったら」


「これまでに殺したことは?」


「あるよ。もちろん」


 そう。何人も。発作的に殺してきた。


「……そう」


「怖くなった?」


「全然」


「そろそろ始めていい?」


「はい」


 そっけなく言うだけで、何も構えたりしない。すごく静かだけれど体の奥は燃えるように熱い。握った手の中が汗で滑って、それを拭き取るために太ももに擦り付ける。それからナイフを取り出す。薄汚れたナイフは切れ味が悪そうに見える。それでも先端の鋭さは衝動をかき立てる


 殺した後のことばかりで頭がいっぱいになって、猛然と突っ込んでは呆気なく地面に転がされる。


「じゃあね」


 始めてしまえばこのわずかな邂逅も終わる。一瞬のことすぎて彼女と会っていたことが夢なのではないかとも思う。けれど捻られた手首の痛みが現実を強く主張してくれたおかげで安易な妄想に逃げずに済んだ。俺は彼女を殺さなければならない。殺すのだ。

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