第3話 過去は灰色で
次の日曜日まで後六日。コンクリートに打ちつけられた背中の痛みで這うようにして布団から出る。まずこの貧弱な体をどうにかしなければならない。もやしと形容すればもやしに失礼だと言われそうな薄っぺらい体を見下ろして絶望する。
とりあえず腹筋を鍛えようと畳の上に仰向けに寝転がり、腹に力を入れるもののどうにも起き上がらない。数センチ浮き上がっただけの体が呆気なく折れて頭が畳につく。腹筋が無さすぎるために腹筋を鍛えるためのトレーニングができないとは予想外だ。
起き上がらないながらも、数センチ体を上げる作業を二十回やり終えた。じんわりとした熱を腹部に感じる。これが筋トレか。続いて腕立て伏せをしようとしたのだが、体を支えているのが限界で一度体を下げてしまうと全く上げることができなかった。こんな状態でどうにかなるのか不安にも思うが、やるしかない。
とりあえず知っている一通りのトレーニングをすると一桁代の気温でも気にならないほど体温が上がり、わずかに汗が滲んだ。蛇口から出る水に直接口をつけて貪るように飲む。冷えた水が食道を通って胃に流れていくのが冷たさでわかる。
トレーニング後にはプロテインを飲む必要があるということは知っていたので探してみると一袋五千円もするではないか。食事もちゃんとしたものを食べなければいけないし、服もちゃんとしたものを手に入れたい。「大学生みたいな服」と言った時の表情は明らかに嘲りが含まれていたし、そんな風に思われたくはない。これらの問題を解決する唯一にして最大の方法、それは働くこと。日雇いで金がない時に数日だけ働くのではなく、安定した収入を得る必要がある。働きたくない気持ちを上回る熱量が自分の中にあることに驚く。
ミゼとは長期戦になる。目先のことではなく先を見据えた行動をする必要がある。この熱が冷めないうちに近所のコンビニの中でアルバイトを募集している店舗を探し、中でも人が足りていなさそうな店舗に電話をかけた。すぐにでも働きたいと電話口で言ったらその日のうちに面接をしてもらえて、すぐにシフトに入れてもらえることになった。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
ミゼとの会話以外で声を発さないせいで最初の三日間は声も枯れ、覚えることも多くて逃げ出そうかと本気で考えたがミゼがそれを止めてくれた。俺には金がいる。ミゼのために。
朝から夕方までアルバイトをして、筋トレをして眠る。食事を昼と夜の二食摂るようにした。体を動かせば食べ物も喉を通る。
「なんか雰囲気変わった」
コートからジャケットへと上着を変えたミゼが感心したように言った。
「そうかな」
とぼけて見たものの、最近の努力を褒められたようでうれしくなってしまう。
「少し生きてる人らしくなった。まだ落武者みたいだけど」
「そんなにひどいのか。俺」
厚底の靴が鉄板の上を軽やかに歩く。背を向けて何も警戒している様子がない。後ろから刺してやろうか。いや、そんなことはできない。
「ミゼは仕事しているのか?」
「さすがにね。平日は真人間だよ」
振り返って、思いついたように眉を上げた。
「働き始めたの?」
やや低い声はそのままに、少しだけトーンの上がった声音だ。
「ああ」
自信満々に言ってやった。そう、俺はいま働いているのだ!
「そう……よっぽど私を殺したいんだね」
髪に隠れて表情が見えない。強い風が吹き抜けて肩口ほどの長さの髪がなびく。
「そんなに熱い気持ちを向けられると照れる」
向かい合った表情はいたずらに笑っていた。背の高い彼女はほとんど同じ高さに目がある。
「どうしてミゼは強いんだ?」
小首を傾げて少し間を置き、表情を消して話しだす。
「子供の頃からいろいろある家だったから、強くならないと生きていけなかった」
一層低くなった声と言葉の重みに周囲の気温が下がる。
「人も殺したよ。あなたと一緒。だから強い」
どうしてあなたはそんなにも弱いの?と暗に言われている気がした。
「家族はもういないし。友達もほとんどいない。だから強い」
「ちゃんと強くなれたんだな。俺と違って」
伏目がちな視線が持ち上がって交錯する。その大きく鋭い瞳が先を促す。
「俺も家はくそだったよ。逃げ続けてたらそんな家族も全員死んじゃって俺一人。逃げてしかいないから何も強くない」
古臭い風習の残った田舎町の住宅街が脳裏に浮かんで胸がざらつく。木造二階建ての可愛らしい一軒家は鉄格子よりも堅い牢獄にしか見えない。
「家族はあなたが殺したわけじゃないのね」
「みんな同じ病気。俺もいつかその病気で死ぬかもな。同じ血が流れているから」
「ミゼが殺したのは家族なのか?」
これまでの文脈からすれば当然のことを確かめるように聞いた。
「そう。5人全員」
淡々と口にする。
「よく捕まらなかったな。何かコツがあるなら教えてくれよ」
「運が良かっただけ。それに、殺した後の逃げ方を被害者になる私が教えるわけないでしょ」
「そりゃそうか」
風が吹くたびにミゼは体をわずかに震わせた。
「私なんてそこらへんに捨てるだけでいいよ。誰も探さないから」
「俺が殺せると思っているんだな」
「もしもの話。今じゃまだまだ、話にならない」
「やってみるか?」
そろそろ潮時だろう。一通り話もしたし、十七時に帰宅するにはそろそろ始めなければならない。
「いつでもどうぞ?」
腕を抱くような格好から両腕を垂らした。ナイフを取り出す。
「あああぁぁ」
加速した勢いのまま空を飛び、肩から地面に落ちて数メートル横滑りして止まる。情けない声が反響して自分の耳にも届く。
「受け身取らないと危ないよ」
通り過ぎる時にぼそりとつぶやいた。ポケットに手を突っ込み、わずかに肩を丸めた後ろ姿を振り向かせたくて声をかける。
「また来週!」
かなり大きな声を出したので届いていると思うのだが、反応もなく平然とはなれていくのでもしかして聞こえなかったのかと不安になる。肩の痛みを堪えて体を起こす。視界の中で横向きだった後ろ姿が縦向きになる。
角を曲がる直前にわずかに速度を落として右手を軽く上げてくれた。振り向かないところがまた彼女らしい。
振り向いて欲しく無い。
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