刹那的殺人衝動の喪失

明日乃鳥

第1話 衝動の発露

 足元がおぼつかない。


 派手で近未来的な商業施設は人で溢れていて不快だ。


 ここは埋立地らしい。だからこんなにも気持ちが悪いのか。体の感覚がしっくりこない。体が細胞レベルで分解され、再度結合したような違和感。


 薄汚れた靴の底を地面に擦るようにして歩く。自動ドアを通り抜ければ、均等な面積を与えられたテナントの並ぶフロアになる。


 ぶつからないのが不思議なくらいの人混み、いや、目にしていない、意識していないだけで人と人がぶつかっている。モノとモノがぶつかっている。


 流行りのポップミュージックが喧騒に紛れてうっすらと聞こえてくる。


 この埋立地の下に存在した生物や失われた自然のことを想像した。


 大して興味のない店に入り、大して興味のなさそうな素振りで店内を見て回る。布地の触り心地を確かめ、滑らかな動作で値札を取り出して、少し間を置いて売り場を離れる。今は金がない、、、今も金がない。


「クレープいかがっすか?」


「ああ、、だいじょうぶ」


 あいまいな笑顔で手を振り、歩き去る。茶髪に派手なピアスをつけた男に少し罪悪感を覚える。けれどあの男は何も思っていないのだろう。心の壁も無視して全てを破壊し、砕けた壁を粉々にすりつぶすような笑顔は反復作業の一つでしかない。


 足が痛くなるほど歩き、テナントで入っている珈琲店に立ち寄る。珈琲店にしては珈琲の香りがあまりしない。甘い匂いが重く漂っている。


 二人用の席に座り、リュックサックを対面の席に置く。通りがけに見た桜の花びらがリュックサックに挟まって、使い古して色の褪せた黒色の中に、爽やかな色を差していた。


 強い動悸に襲われる。手を握りしめながら周囲を見渡す。制服姿の高校生のグループ、40代くらいの主婦グループ。大学生くらいのカップル。違う。違う。不愉快そうな顔でパンケーキにナイフを入れているOL。違う。


 見つけた。


 視界の真ん中に捉えた刹那、動悸が最高潮に達する。彼女の後頭部を中心として視界が回転し始める。時計回り。


 テーブルに手を置いていなければ自分が座っていることすらもわからなくなってしまいそうだった。こんなにも強いのは初めてだった。思考が鈍化して視界中央の黒髪を、単純な黒と処理することしかできない。


 彼女が立ち上がる。前に流れた髪に隠れて顔が見えない。


 リュックサックを胸に抱え、手探りで中を漁る。タオルや着替えの服をかき分けて硬いものが指先に当たる。底に沈んだ凶器。ナイフの柄は木製で少し温かみを感じる。最初は優しく撫でるように、それから思いきり握りしめた。動悸が少し弱まる。深呼吸。深呼吸。


 彼女がお会計をすまして店を出てしまう。財布から千円札を取り出し、グラスの水を重しにして千円札を置いた。


 彼女が店から出た。視界から姿が消える。店を出て左に曲がる。


「お客様!?」


 まだ商品が、お代が、という言葉が出てこないほど驚いている若い女性の店員には申し訳ないが今はそれどころではない。


「お金はテーブルに。急いでいるので」


 言葉と言葉の隙間を詰めたひどい早口になる。


 不可解な言葉に首を傾げているであろう店員を見ることもなく早足で店を出て、左へ直角に曲がる。


 黒いロングコートを着た後ろ姿が視界から外れぬように追いかける。どうしてこんなことしているんだ。


 はみ出た買い物袋に何度かぶつかり、苛立たしげな目を向けられる。


 エスカレーターの七、八段先に彼女がいる。突き抜けるように開いた空間へと差す陽の光で髪色がやや赤みがかったものであることがわかる。高度が下がる。

 一定の距離を空けて後ろを歩き続けて、ついに外へ出た。寒いほどの外気も今は心地が良い。もっと熱を奪い去ってくれ。


 綺麗に整備された赤茶色のレンガで組まれた歩道を歩く。薄い靴底からレンガの継ぎ目を感じる。こんなことをしたらまずいのに。


 歩けば歩くほど、人は散っていく。開発が進む工事現場まで来るともう二人だけになっていた。黄と黒の看板が風でたわむ。白地に緑の十字架が描かれた旗が強くたなびいている。


 隠れる場所もないし、隠れる気もない。不思議なくらいにすがすがしい心地だ。首元から入りこむ冷気が体の中を巡って抜けていく。


「なにか用?」


 後ろ姿しか見えなかった彼女が振り返る。挑戦的な目つき。口もとは不満そうに引き結ばれている。それらは今だけのものではないように思う。世の中の全てを非難しているように染みついた不満。鷲鼻で外国のルーツがうかがえる端正な顔立ちをしている。似つかわしくない牙をむき出しにして威嚇する小型犬を思わせた。


「いや、、えっと……」


 痛いほどの冷気がぶつかってくるのに頭が熱を持ってしまって言葉が出てこない。どうして俺はこんなに焦っているんだ!?何度も考えたじゃないか。


「えっと、その……あなたを殺したいなと、思いまして」


 距離を詰める。五メートルほどの距離。彼女は逃げ出さずにこちらを睨みつけている。左目の涙ぼくろが俺の意識を吸い寄せる。


「あなたが私を殺すの?」


 少しの間を置いてから訝しげに問いかけられた。とげとげしさが少し薄れているのは気のせいだろうか。


 首肯し、リュックサックを胸の前に持ってきてチャックを開ける。


「どうして?」


「どうしてだろう……」


 いてもたってもいられなくなった。見た瞬間、いや見る前の刹那。俺の全てを内包した皮膚を突き破ってこぼれそうな衝動はすなわち殺人衝動だった。


「ふと、殺したいと思った。それだけ……かな」


 彼女が視線を外す。ダンプの走る音が聞こえる。


 ナイフを取り出す。くすんだ鈍色の刀身が仄かに輝いて見える。


「最悪」


 つぶやいた声も聞こえるほどの距離まできている。柄を強く握り、夢中でナイフを突き出す。鼓動がうるさくて他の何も聞こえない。脳を麻痺させるほどの高揚感と多幸感が溢れている。


 奇声を上げるようなことも、自分を鼓舞するような大声を出すこともなく。ただただ静かに、決められた動作を繰り返す機械のように体を動かした。そうでなければオーバーヒートした頭では立っていることすらうまく認識できない。視界は回り続けている。世界は回り続けている。


 体が重なる、けれど手応えがない。慣性のままに体が浮き上がる。一瞬、薄藍色が見えて、それが空だと思った時には背中を強打して悶絶した。右手首が手錠のように硬く掴まれて、びくともしない。細い指先からは想像もつかない力で締め付けられている。とても冷たい手。ナイフが落ち、アスファルトにぶつかって高い音を立てた。


「んぐっ。はぁ、はぁ」


 肺に残った息を絞り出して言葉にならない音を吐き出す。白い息が空に立ちのぼっていく。


「よわ……」


 掴まれた手首から力が抜ける。持ち上げられていた腕が重力のままに落ちて、肘から硬いアスファルトに転がった。


「名前は?」


 仰向けの俺を見下ろすようにして問いかけられる。左腕を抱くような格好をしている。


「……シュウ」


 一呼吸してから答えた。


「そう……私はミゼ。次会った時も同じくらい殺したかったら付き合ってあげる」


 偽名だなと思った。俺が名前を偽っているからそう感じただけかもしれないけれど、よく似合った名前だった。似合いすぎていて、本当の名前はもっと古風で彼女に似合わない名前であったらと思う。


「だから、もう少しまともな格好しておいて。こんなダサい男に……殺されたくないから」


 しっかりと最後まで見下ろしたまま言い切ってから体を翻した。ブーツの乾いた足音が徐々に遠ざかる。通りを走る車の振動が小刻みに体を揺らす。


 立ち上がると、地面に強打した体が悲鳴を上げる。ナイフを鞄の奥底にしまい、彼女が歩き去った方向とは逆の方向へと進んだ。


 二時間歩いてようやく自宅の近所までたどり着く。なんとも不便な場所だ。どこへいくにも時間がかかる。


 閑静な住宅街、十字に交差した道を自転車に乗った警官が通りすぎる。何も思わない。


 ガニ股でペダルを漕ぐ後ろ姿が傾いた太陽に照らされている。もうそんな時間か。今日は時間が経つのがとても早い。


 錆び付いて元の色のわからない階段を登り、ボロい木造2階建ての一室に入る。鍵はかけていない。そもそも取られるようなものがない。


 リュックサックを投げ捨て、畳の上にあぐらをかいてテレビをつける。かろうじて地デジに対応した生き残りのオンボロは二十秒ほどかかってようやく音声を流し始める。さらに十秒ほど待つと映像がつく。発色の悪い、病的な極彩色をしていた。


『夕方のニュースをお伝えします』


 日課となっている報道番組が始まる。手を握りしめ、ニュースラインナップに並ぶ一行一行に忙しなく目を向ける。じんわりと汗が滲み、シャツが肌に張り付く。


 動物園から逃げした猿。内戦激化。大学入学試験。暴風雨への備えを。コンビニに乗用車突っ込む。商店街で強盗。どれも違う。関係ない。


 番組終了の六時四十五分まで齧りつくようにテレビを見続け、終わりの陽気なBGMを聴いて、溜め込んでいた息を吐き出す。


 引いたままの布団に寝転がって目を閉じる。数時間前のことを思い出す。どうしてあそこまで彼女、ミゼに執着してしまったのか。発作はこれまでも何度かあった。見た瞬間から動悸が激しくなって、リュックサックに潜ませたナイフで刺し殺した。柔らかな肢体にすんなりと入る刃先、けれど思いのほか力のいる作業だった。悲鳴はあげないでほしい。怖がらせたいわけではないのだ。どうしてこの気持ちを誰も理解してくれないのか。落ち着いているはずなのに胸騒ぎのようなむず痒さが消えてくれない。

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