第7話 変化は望まない

 手元でさりげなく操作して、アプリを開く。トーク画面に残った一つのスタンプ。二頭身の猫が真顔でこちらを見ている。どことなく彼女に似ている気がする。特に無愛想なところが。


 それを見ているだけで憂鬱な気分が少しだけマシになる。客もいなければ店員も俺しかいない。


 体が遮蔽になってスマートフォンをカメラから隠してくれる。最近気がついた。


 トーク画面を閉じ、ミゼに教えてもらったニュースアプリを開いてみる。


 芸人の記事やら俳優の記事やら、興味のないものばかりなので、検索欄に直接「殺人」と入れてみると全国の殺人にまつわるものが出てきてくれる。なんと便利な。


 発生場所、時期を見て関連がありそうなものをタップする。


『東京都で変死。捜査は難航』


『強盗殺人。犯人は逃走中』


『打ち上げ死体四人目。行方不明の女性か』


『遺体には二十箇所以上の傷。28歳無職の男を逮捕』


 どれもそこまで深い内容ではないものの、すべて身に覚えがないもので胸を撫で下ろす。最近はミゼに意識を持っていかれているせいか生活していて衝動のままに行動を起こすようなこともなかったのであまり緊迫した思いはないものの、過去のものがいつ見つかるかわからない。ここまで見つからなければもう見つからないような気もするけれど、どこかで罪は全て見られていて、罰が必ずやってくるようにも感じる。


 俺は信心深い教徒ではない。神に見捨てられた一人間にすぎない。ただ、漠然とした感覚だけがある。


 暇潰しがてらに関連して出てくるいくつかの記事にも目を通してみる。自分に関係がないとわかっているものは楽しく見られる。


 ピロリロ、ピロリロ


「いらっしゃいませー」


 電子音に顔をあげる。さりげなくポケットに閉まって、ホットスナックを作り始める。あと二日だ。




 一度経験したことは、以降難易度が大幅に下がる。


 パスタをスプーンの上でフォークに巻きつけるのを見る。それをよく観察して、同じようにフォークを回す。


「真似しないで」


 ミゼのフォークよりも不細工でたくさん巻きついたフォークを口に入れる。想像以上の量が口の中を占拠してしばらく話せそうにない。咀嚼する間、鋭く挑戦的な目線を浴び続ける。瞳の奥の暗い部分が液体のように形を変え、瞳全体に広がる。


「醜く啜ってればいいのに」


 言い捨てるように言ってミゼが目線を外す。それから器用にクリームの絡んだパスタを巻きつけて食べ始めた。もぐもぐ。


「食べ方、大事なんだろ?」


 フォークを回す。持ち上げると巻いたはずのパスタが解けて垂れ下がってしまう。巻き直すかそのままいくか。


「真似するのが私じゃだめ」


 綺麗だと思うんだけどなあ。と思うだけにとどめておく。個人的な感想を言われるのをミゼは嫌う。


 皿の端で三周ほど巻き直す。綺麗に巻けた。


「でも、他に食べる人いないし」


 淡々と動き続けていたミゼの手が止まる。歯車の隙間に異物が挟まって動かなくなってしまったような不自然な止まり方だった。


「いくらでもいるでしょ。今のあなたなら」


 ほとんど無表情を崩さないミゼが、わかりやすいほど哀しい笑顔を見せる。どうしようもない居心地の悪さに水滴のついたグラスを掴んで半分ほど残った水を全て飲み干した。長いまつ毛が瞬く。


 さらに残ったパスタをかきこんだ。口に入らない分を啜って、口いっぱいに詰め込んで咀嚼した。静かな店内の誰もがこちらを一瞥するような音を立てた。どうしてそうしようと思ったのかもわからない。


「きたない」


 ミゼはあまり驚いた様子も見せず、研ぎ澄まされた刃のような声でそう呟いた。それから平然と残りを食べ始めた。



*

 週二回というのはなかなか良い頻度だと、向かう道中で思う。会って、戦って、別れて。別れたと思ったらもう次が迫っている。繰り返される七日。


 すぐそこまで出かかっているのをなんとか我慢しているような、暗く重たい雲が空を覆っていた。


 雨が降り出すことを強く願う。


 無慈悲な自然の力を願う。みんな不幸にしてほしい。二人だけを少しだけ幸せにしてほしい。


 雨の日の彼女は少しだけお喋りになる。


 まだ梅雨は明けていないのだから我慢する必要はないのだぞと空へ問いかけてみる。


 傘の先端がコンクリートを一定の間隔で打っている。役目はまだかと訴えている。


 じっとりと全身を覆う湿気と熱の不快感を早足で歩いて置き去りにしようとする。




    


「もう会わない方がいい」


 昼過ぎ、雨が降り始めた。カフェの席から地面が黒く濡れていくのを眺めていた。厚いガラスは雨音を遮断してしまう。


「どうして?」


 温くなった珈琲を一口含む。


「あなたはまともな人になった。私と違って」


 平然と、言い慣れた言葉を口にするような滑らかさで言う。


「まともな人が、これを持ち歩くとは思えないけど」


 ショルダーバックを叩く。正確にはその底にあるナイフを。


「今日は持ってきたんだ」


「やる気ないって言われちゃったからな。俺は本気なんだ」


 自分で言ってその言葉の薄っぺらさを実感する。本気な人間は自分で本気なんだなんて言わない。


「場所、変えよう」


 底に沈んで、暗く光を吸い込むようなコーヒーをテーブルの上に残して店を出た。


 雨の音がする。

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