第6話 育まれる関係

「私、仕事やめた」


 傘をたたみながらミゼが言った。水滴が乾いた鉄板の上に落ちて、小さな水溜りを作る。


「そっか」


 乱雑に傘を振り回して水滴を払う。


「いいね。仕事なんかするもんじゃない」


「自分はしてるのに?」


 几帳面に折り目で畳まれたミゼの傘が捨てられたように無惨な俺の傘の横に並ぶ。


「仕事じゃない。アルバイト」


「アルバイトも仕事だよ」


「金がないからな。あれば絶対するか」


 この服も、靴も、さっき食べたオムライスも。何にだって金がかかる。


「お金がないから働けるのってすごいよ」


 湿った鉄板に手をつく。見上げるとコンクリートの冷たい影がある。その影に守られている。涼しい風が吹く。


「そうかな?」


 隅に生えた草がゆったりと揺れている。


「そうだよ」


 そよ風が産毛を揺らすような、どこか儚げで優しい肯定。あきらめに似た慈愛。


 その余韻を確かめるように静かな時間が流れる。


 両膝を抱きかかえるような体勢のまま、顔だけをこちらに向ける。


「休みいつ?」


「基本は水曜日と日曜日」


「じゃあ、水曜日もここ、来るから」


 電車が上を走り抜けるのを待つ。互いに口をつぐむ。


 最終車両が頭上を通過する。


「暇だったら……」


 最後まで言葉にならず消えてしまう。


「もちろんくるよ」


 つとめて明るく言う。


「休みの日、暇で暇でしょうがないからさ」


 日曜日以外はただの繰り返しでしかない。


「それに、チャンスが倍になるし」


 二人の関係をつなぐ根本を忘れないように言葉にする。


「やられないように、する」


 握られた手に力がこもったように見える。


「そんなに気合入れられちゃうとますます殺れなくなっちゃうな」




 雨のせいか、その日はいつにも増してゆっくりと話した。すでに七時を過ぎ、誘蛾灯の灯りだけがこの場所を照らしていた。


 彼女には明日からの仕事はないし、夕方の報道番組を見る必要も無くなった今、縛るものは何もなかった。それでもそろそろ潮時かなと思い、儀式のように向かい合う。


 すっかり乾いてしまった傘を剣のように構えてみる。


 長いこと話していたせいで喉も渇いている。今度は飲み物も持ってこよう。


 安いビニール傘なのだが、握ってみると本当に剣を持っているような気分になる。構えもまともに知らないけれど、なんとなくのイメージで振り上げて距離を詰める。


 ミゼは対して構えるわけでもなく「あきれた」と口にして振り下ろされた傘を軽やかに避ける。軽すぎる凶器の先端が鉄板を叩いて鋭い音だけが響く。本当に音だけ。


 腕を掴まれ、投げ飛ばされる。いつもより派手に飛ばされて受け身も虚しく背中を強打する。


「それじゃ」


 傘を広げて雨の中へ出ていく。


「じゃあなー」


 声を背に受けて少しだけ歩く速度を落とす。それから少しだけ首を傾げ、黒い雨の中へと消えていった。


 まっすぐ立って歩く彼女の影を、しばらく雨の中に見ていた。

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