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「でも嬉しいなあ。ここに来てくれた生徒なんて、新入部員が見学で何回か遊びに来たってだけだったし。その一年生達も、なんでかいつも入部しないまま消えてっちゃうのよねー。んで、これだけ珍しいカエル見つけたんだから、今日という今日は誰かに来てもらおうと思ってー、でもこんな時期だから無理かなって思ってたんだけど、諦めずに部室開けててよかったわ、ほんとに」
「は、はあ」
ゆったりした口調ながら、ひっきりなしに喋り続けているという感じの相手に、翔雄はちょっと気後れしていた。よっぽどビジターの出現が喜ばしいことらしかった。大人数でにぎわっている状況は期待できないだろうと思っていたものの、こんな静かな場面で、一対一で接することになるとは少し予想外だ。
丁寧に差し出された紅茶に恐縮しつつ――葉もティーセットも部室の備品にあるまじき高級品だ――つい流れでカップを口にして、そこで不意に翔雄は気づいた。自分の散漫ぶりに愕然としてしまう。いや、毒は入っていない。相手も同じものを飲んでいるんだし、目の前の科学部長とやらは純真無垢そのものだ。とはいえ――なんだ、この無警戒な振る舞いは。諜報機関トップとしてあり得ない。僕はいったいどうしてしまったんだ?
戸惑いつつも、部室に入ってくる直前から今現在までの、自分のメンタル状態を再チェックしてみる。そう、この数分間の自分はおかしかった。今もおかしい。何しろ、この眼の前の女生徒に対して……
――恋、だと?
自問しつつも、平常ペースへ全然復帰できそうにない感覚に、不安まで広がってくる。そんなバカな。僕が恋わずらいなどあり得ない。
「どうかしました?」
心配そうな眼を向けた相手に、「あ、いえなんでも」と愛想笑いを返しつつ、内心で激しく動揺する翔雄である。
――な、何かの間違いだ……そんなことより、今は……
「ええと、か、カエルを見せてもらっても?」
「え? ……あ、あら、そうねっ、ごめんなさい、私ったら」
いつの間にか、接待モードになっていたテーブルの上を見て、女生徒が苦笑する。過剰なもてなしで、お客が戸惑っているだけと受け止めてくれたらしい。というか、翔雄も状況のズレ方にようやっと気づいた。科学部の見物に来ただけで、こんなに歓待してくれるって、何なんだ、この子? なんだか人あしらいに全然慣れてない部長のような。……ああ、他に部員がいないんだったか。
「こんな日なのに部室開けてるんですね」
さりげなく周辺情報を探ってみる。部室の端まで翔雄を先導していた科学部長は、いったんきょとんとした顔を見せてから、
「ああ。ほとんど私の休憩所みたいなところだから。開けるのが当たり前っていうか。教室を私物化するなってさくらにはよく怒られるんだけど」
そう、屈託なく微笑む。なるほど、と翔雄は得心した。さくらってのが誰なのかはともかく、引きこもりタイプの女生徒が、私室代わりに部室通いを続けている、という構図か? それにしては、わざわざSNSで見物客を募るっていうのは――
「これがそのカエル。どうぞ、近くで見て」
女生徒が手で指し示したのは、部屋の隅の長テーブルの上に置いた大型水槽。浅く水を張って石くれをいくつか置いたその隅に、バカでかいカエルが三匹ほど、ふてぶてしい面構えでどっかりと居座っている。
ひと目見て、やはりか、とつい顔をしかめそうになる。
見覚えのあるカエルだった。大ガエルと聞いて、もしかするととは思っていたけれど、そういえば滝多緒学園の裏手にある熱帯園で、こういうのが何匹かいたような気がする。そもそもその熱帯園自体、新手の金儲けのネタ探しにと、学園長が生物部の生徒を使って色々試行錯誤している実験場のような空間だそうで、翔雄はそれを聞くや、決して関わるまいと固く決心したものだった。いわば見ぬふりをしてきた学園の暗部であったわけだが……
――ま、まあ、カエルの来歴はこの際置くとして、だ。
雑念を追い出して、自分の疑問に集中することにする。DNA的にまっとうな生き物ではなさそうなのは、この際どうでもいい。問題なのは、青い燐光に包まれていたという、そのメカニズムであって。
「今は光ってないのか……」
ついうっかり口に出して、一瞬ひやりとするが、女生徒はごくごく自然に頷き返して、
「あ、やっぱり他にも気づいてた人がいたんだ〜。みんな温水の中にいるってことだけで大騒ぎしてて、このカエルの面白さがちゃんと伝わってないなあって思ってたんだけど」
「そ、そうだね、たまたま、ちらっと、人づてに耳に入っただけで」
「気になる光り方してたのよね。呼吸にシンクロしてるようで、でももっと息が長い周期のようで」
「そ、そうなんだ?……でもここに持ってきてからは……光ってない……んだよね?」
「そうなの。水温が低いからじゃないかな。そっちの問題はまだ調べてないんだけど。ヒーターの調子が悪いんで、皮膚の発光条件については再現実験、後回しにしたから」
なんだか、遺伝子改変動物である事実は全くスルーしている口ぶりだ。発光の件にしろ、貴様、その話をどこから聞いた!? とか詰め寄られてもおかしくなかったのに、おっとりしたものだ。まあ相手は翔雄を聖泉の生徒と思っているのだろうし、怪しむことでもないと聞き流したのか。
「仮説だけど、表皮温度が三十八度を超えると、発光組織が活性化するような仕組みにしてるのかなって。水温計代わりってこと? なんだか遠回りなことしてるなあとも思うんだけど、微温湯だと全然光らないし、設定温度がかなり厳密なんだろうなって。それにしても温度でスイッチ入れるなんて、
「この光はルシフェリンなんかじゃないと思う」
短く返すと、急に女生徒は静かになった。
一拍遅れて、あ、と翔雄は自らの失態に気づいた。せっかく知識自慢混じりに気持ちよく自説を披露していた交渉相手へ、頭から反論してしまった。これはマズイ。こういう時は存分に自己顕示欲を満たしてやるのがセオリーなのに……と、慌てて傍らを振り向いた翔雄は、しかし。
好奇で爆発しそうな大きな二つの目を間近に見て、絶句した。
「ルシフェリンじゃなかったら……何?」
ささやくように、娘が訊いた。気圧されながらも、一度ごくりとつばを呑み込んで、ここまで切れ切れに考えてきたことを口にする。
「……この発光は……水温じゃなくて……温泉水に反応してるんだと思う……温水の中の、特定の成分に」
「特定の成分……って? カリウム? マグネシウム?」
話す間にも、ぐぐっと顔をドアップにして迫ってくる科学部長。なんでこんなに食いつく? ってか、この顔はなんだ? なんか、まぶたで噛みつかれそうな……
「そ、そういう、元素レベルの話は何とも言えない、けど……光の元になってる物質について言えば……温泉水の中の、青っぽい燐光って聞いて……それは、生物組織よりも発光鉱物かなって」
「鉱物……? そんなものが、ここの温泉の中になんて」
「聞いたことないかな? アリマイトっていう、白亜期の或摩層群に出てくる石の名前」
「! ある!……けど、まさか、そんな可能性が……」
「ただ、その仮説には欠点もある。アリマイトは微電流で光を出すという珍しい鉱物だ。カエルの皮膚にアリマイトの微細な粒が付着していたとして、電気が発生する仕組みの説明ができるかどうか――」
「それ、正解よ! 電気ならあるものっ」
「え?」
「これ見て!」
そう言って、部屋の反対側から何かのプレパラートをひっつかんで、翔雄の前に突きつける少女。丁寧に作った標本のようだが、見てと言われても、何かの組織片であるんだろうな、ぐらいしかわからない。じれたように、娘が叫んだ。
「これはそのカエルの背中の皮膚組織なんだけど! 筋肉の一部が積層構造になってて! なんだかよくわからなくてっ、でも今分かった! これ、発電器官よ! デンキウナギなんかと同じ仕組みの!」
「……発電……カエルが……」
「これで全部説明がついた! おかしいと思ったの! 皮膚のPH値が測定のたびに変にブレるから、メーターおかしくなったかなって思ってたんだけど! よかった! でもすごい! こんな面白いことになってたなんて!」
大輪の花のように、輝くような笑みを満面に浮かべる少女。
その時、翔雄は唐突に何もかも理解した。
この娘は、僕だ。
石が好きで、地学が好きで、一人部室の標本を眺めているだけで何時間でも過ごせる地質学オタク。でも、叶うことなら同志がほしかった。語り合える仲間が目の前にいればいいと思った。そんな相手は学園の中のどこにもいなかった。これまでずっと、何年間も。
きっとこの人もそうだったんだ。どこまでも自分と対等に考え、論じてくれる相手がいてほしいなと思いながら、言葉にする前に諦め続けていた少女。
でも、今、見つけた。
この娘は僕を。僕はこの娘を。
「さっそく検証実験に入らなきゃっ。手伝ってもらえます!?」
「あ、うん、それはもちろん、喜んで!」
脳裏に小さな影がよぎるのを自覚した。何かを忘れている。極めて深刻で重要で喫緊の問題を。
ああ、でも。
この人のこの笑顔。なんて嬉しそうな顔をしているんだろう。なんて生き生きとした声で話しているんだろう。
僕はなんて――幸せな気分なんだろう。
「交信? 光でコミュニケーション取り合ってるってこと? このカエルが?」
「そう。光ってる時のこと思い出したら、なんだか個体ごとにズレがあったなあって。それも、ただズレてるだけじゃなくて、発光パターンもそれぞれ不規則なところがあって」
「面白い解釈だけど、光じゃなくて、電気でコミュニケートしてるって可能性はないかな?」
「え、それはこの場合、同じ意味なんじゃ?」
「ええとね、詳しくチェックする必要はあるけど、たぶんこのカエル、アリマイトの粒があるところじゃないと光らないと思う。でも、光でコミュニケートするって、一日二日で身につく習性じゃないよね? んで、アリマイトってこの辺でもどこにでもあるわけじゃないから。 そんな都合のいい場所で、このカエルが何代も生息し続けたと考えるのは、少し苦しいかなって」
「ふうん、一理あるかもね。でもねぇ、電気でコミュニケートって、皮膚でってことでしょ? このカエルの表皮って、電気を感知しようにも、もともとの放電圧が――」
(何たるディープな会話)
科学部室の扉の陰から、半口開けて聞き入った姿勢のまま、さくらはその場から動けなかった。こちらには目もくれないでテーブルで向き合ってる二人のオタクぶりに圧倒されたというのもある。成績面でもその辺りの秀才に引けを取らないさくらでさえ、目の前の対話にはついていくのが精一杯だ。個々の用語はともかく、着想の妙を競う合うがごとき対話のスピードについていけない。
けれども、さくらが本当に信じられない思いでいたのは、そこではなかった。
(私は、今まで優理枝様の何を見てきたのだろう……)
何という楽しそうな笑顔でいらっしゃることか。あの方はホルマリン漬けや生体実験を語る時でさえ、辟易するほど嬉々として振る舞っておられたのに……あれが……あの姿が、あの方の真に求めておられた笑いであったのか――。
守護役として当然感じるべき喜び、だけではない。自責の念と、喪失感のようなものと、嫉妬心まで、じわじわ胸の奥に浸み出してくる。
しばらく無言で佇む。今まで知らなかった自分のどす黒いものを見た気分だ。だんだん心が重くなって、耐えられなくなったところで、ぐいっと頭を振った。
私は未熟だ。こんな場面で、こんな心境に陥るなどと。
祝福すべきではないか。この学校にもあの方の話し相手が務まるほどのオタ……いや、高い専門性を備えた尊敬すべき教養人がいたのだ。これからは、科学部の友人として、姫君のお守りを押し……もとい、余暇活動のよきサポート役になってもらわねば。
(にしても、どこのクラスですの、あの生徒は?)
見慣れない男子生徒は、左半身をこちらにさらしたまま、優理枝にピッタリ付き添っている。現在の話題は、最新の「サイエンス」に載っていた超臨界水下でも生存できるという原生生物についての、トンデモ系すれすれのぶっとんだ意見交換である。
(ルックスの下地はいい。これで家柄がよければ、あのヒヒの当て馬にも……ん?)
ふと、ごく最近にその男のシルエットを見たような気がして、上目になって記憶を探る。いつ、どこで、という付帯情報にもう少しで手が届くと思えた時、端末が左手のベルト上で震動した。一度通路の外れまで無音で移動し、通話をオンにする。同時にやっと、今自分は大歩を探している途中だったことを思い出す。
「何か?」
同じタイミングで執務室を出た女子の後輩からである。
『あ、あの、柳堂様が……その……』
「発情馬がどうしたのです。とうとう訴えられでも?」
『いえ、あの……倒れてます。ホテル棟二階の実習用客室で』
「倒れている? 寝ているじゃなくて?」
『ええ、外傷はないようですが……ええと、その、顔にキスマークがいっぱい……』
一瞬、直立不動で万歳三唱しそうになって、やっとのことでこらえた。めったに聞けない朗報ではあるものの、時期が時期だ。大歩はあれで柳堂家の御曹司でもある。笑み崩れそうになる顔面筋肉を必死で抑制し、さくらは警戒の声音を取り繕った。
「すぐ行きます。人がいるなら、周囲をしっかり探索してもらって。警備室には私から連絡しますので。たった今から全館の対応をレベル5に上げます」
『了解しました』
一度、科学部室に視線を向けて、諦めたようにそっとその場を離れる。エレベーターのボタンを押し、しばらく何事か考えていたさくらは、はっと顔を上げると、恐ろしく真剣な顔で先ほどの相手をもう一度呼びだした。噛みつくような勢いに、後輩は面食らっていた。
『は、はい?』
「カメラは使える? 発情ヒヒの無様にひっくり返ってるとこ、撮っといて。いっぱい。全身と、アップも。特に顔は念入りにね」
すぷりんぐ・うぉー ー裏六甲温泉大戦争ー 湾多珠巳 @wonder_tamami
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