エピローグ
エピローグ
一年後──
朝から、残り梅雨のような
今日は母の命日で実家に向かった。面倒だが、ときどき空き家の手入れに来ては、問題がないか見ている。
今年の梅雨は長いと仕事先の顧客が話していた。
そうかもしれない。長雨は
この家に来るのは三ヶ月ぶりだった。
家のドアを開けるとキキキッと
中に入ると、人の住んでいない家特有のかび臭い匂いがする。空気を入れ替えるために家全体の窓を開けてまわる。
薄い光が差し込む。
ここには、いまだに少女だったわたしと母と義父と、ジオンとの思い出が隅々に残っている。
──いつか売らなきゃね。と、母が言っていた。
そう、いつか、売らなきゃならないだろう。
ジオンの悪い噂から逃げるようにして去った家。あの当時、この近辺に住んでいた人は、もうほとんどいない。
都会の移り変わりは激しい。
今では、わたしたちが住んでいたことさえ、知っている人も少なくなった。
「そうね、そろそろこの家も売らなきゃね。もうジオンが帰ってくることはない。母さん、わたしね、結婚したわ。五月端って姓になった。いまは五月端櫻子よ。五月と桜で笑えるでしょう。本当に毎日が春みたいな日々よ」
二十年前の日々が、鮮やかに思い浮かぶ。たぶん、わたしの記憶は修正され、良いことしか残っていない。
毎朝、ジオンが起こしにきて、わたしは寝呆けたまま美しい彼を見る。それは決まって階段前の廊下だった。
キッチンで料理する義父。
母の、さも楽しそうな笑い声。
あわてて食事をしたテーブル。
全部そのままだ。
掃除をして、持ってきた花束をテーブルに飾る。
「また、来るわ。またね」
家全体の戸締りをして、玄関ドアの鍵を閉める。
それから、駅に向かう。
よく知った道だ。踏切を越え、右に曲がると駅があり、左にまわればジオンとともに通った学校への道筋になる。
カバンを斜めがけして歩く兄。あの広い背中を忘れることはない。無口で孤独な青年に、今ならなんと声をかけるのだろう。
カンカンカンカンカン。
踏切まで来ると、タイミング悪く電車の通過を知らせる音が鳴った。ゆっくりと遮断機が降りる。
この踏切は駅に近く、プラットフォームに電車が到着すると遮断機がおりる。そのため電車が発車して通り過ぎるまで長い時間を待たされる。
しのつく雨がずっとふり続いている。
傘から右手を伸ばして、初夏の熱を吸収した水滴を手に受ける。
カンカンカンカンカン。
この音を聞いた十七歳の夏。
わたしは何度も何度も兄を探して踏切で電車が通り過ぎるのを待った。電車が通り過ぎ、遮断機が上がって、そこに帰ってきたジオンが立っていることを願った。
その時の自分を考えると、せつなくなる。
兄は帰って来なかった。
今では兄が帰ってくることがないと知っている。
線路の枕木を叩くように電車が通り過ぎていく。
遮断機の向こう側。
いるはずもない人を探して、わたしは顔をあげる……。
人が立っていた。
背の高い均整のとれた体つき。ちょっと捻くれたように右肩を下げ、視線をあげる男。感情のない顔。
晴れの日も。
雨の日も。
風の日も。
雪の日も。
ただ、その姿を、そこに見つけることをずっと願っていた。
踏切の向こう側で男が泣いているかのように顔を歪める。
ジオン……。
わたしは動けない。足が震え、なにも考えることができない。この世界には、時にこんな神様のイタズラのような日があるのかもしれない。
遮断機があがった。
──兄さん。
わたしは一歩も踏み出すことができない。兄がゆったりとした歩調で近づいてくる。
「兄さん」
「昨日、戻って来た」
「日本に用事があったの?」
「母さんと父さんの墓参りだよ」
「そう」
わたしたちは、その場に立ったまま、お互いに何を言ってよいのか迷い、どうでもいい会話をつづけた。
ジオンの美しく端正な顔が雨に濡れている。
「わたし、五月端櫻子になった」
「そうか……。幸せか?」
「ええ」
パラパラと雨がふりつづいている。
ジオンはいつも雨とともに去り、雨とともに帰ってきて、そして、去っていく。兄は、この一年、なにをしていたのだろう。
でも、そんなことは、もうどうでもいい。どうでもよいことだった。
兄は、ここに帰ってきた。
「傘は?」と、わたしはほほ笑み、ジオンを真正面から見た。
ジオンに傘をさしかけると、背の高い彼が傘を引き取った。彼の手が肩を抱く。
「兄さん……。帰ろうか、家に」
「ああ、家に帰ろう」
ー了ー
【完結】彷徨える王 雨 杜和(あめ とわ) @amelish
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