最終話:王朝最後の末裔





 ジオンが苦しげな笑みを浮かべる。こんな時に笑うなんて、ジオン……。いつも表情がないのに、こんな時に笑うなんて。

 救急車のサイレン音が近づいてきた。

 ドアから救急隊員が入ってくると、わたしは泣きながら叫んだ。

『ここよ、この人を助けて』

『あなたも酷い怪我をしていますね』

『わ、わたしは大丈夫、彼を助けて。ナイフで刺したの』

『引き抜いていませんね。いい処置です。離れてください。おい、肩をそっと持て、行くぞ、一、二、三』

 救急隊員がストレッチャーにジオンを乗せた。わたしは力もなく、ただ、それを見守っていた。

『あなたも治療が必要だ。歩けますか?』

『あ、あの』

 そばにいた救急隊員が、わたしを支えようとしたが激痛で立ち上がれない。

『もう一つ、ストレッチャーだ。こっちも酷い』

 警官も来ていた。救急隊員が事情を察して通報したのだろう。静かだった廃墟ビルは喧騒の渦に巻き込まれた。

 中原の仲間は呆けたような態度で、逆らうことなく、警察に身柄を確保された。王の血は、よほどのショックを与えたのだろう。



 それから一連の出来事は、本当に瑣末さまつなことに思える。

 中原の本名が、ガオ・ハオラン(漢字名:高浩然)とか。フランスのインターポール本部に嘱託社員として雇われていたとか。香港生まれの孤児で、育ての親は客家はっかのひとり、サフィーバ財団の重鎮だったとか。

 彼は歪んだ忠誠心を植えつけられた。徹底的に王を敬うよう教育され、臣下として鍛えられ、精神の自由を奪われた。盲目的な彼の行動は、育ての親さえも持て余す存在になったという。

 しかし、わたしには、それだけではないように思える。

 中原はジオンを盲愛していた。自分から逃げていく王に、彼は愛するがゆえに狂ったのだろう。そのきっかけは、幼い頃の思い出だったのかもしれない。愛を知らずに育った男は、ジオンという魔性の存在に心が引き裂かれた。愛情と忠誠心との狭間を彷徨さまよい、怪物になった。

 水瓶みずがめで溺死しようとしたガオ(中原)は、一命を取り留めた。しかし、一定時間、脳への酸素が途絶えたため、廃人のようになって病院にいる。

 ジオンが警察に提供した情報。スマホに録音したガオの自白によって、過去の連続殺人についての公判が被疑者不在のまま米国で行われることになった。広範囲の国で行われた殺人に日本からも司法関係者が訪れると聞く。

 そう、そんな出来事が淡々と続いた。

 わたしはベッドから起きあがることができなかった。事件二日後にようやく意識を取り戻したが、体は傷だらけで、骨折はないがヒビが入った箇所もあり、当分安静にするようにと言われた。

『チェリー。これまた随分とやられたな』と、意識を取り戻していたウィルは、わたしの顔を見て唖然として言った。

 そして、彼が最初にしたことは、あろうことか五月端に連絡することだった。

 お陰で、血相をかえた五月端が日本のすべての仕事をすっぽかして、わたしのもとへ飛んできた。病院で包帯をぐるぐる巻きにされた姿に彼は息をつめた。

 わたしも鏡で見た自分の顔には、痛みよりも驚きのほうが大きかった。

 目の周囲は赤黒く腫れあがり、唇は切れ、歯が一本欠けたため、話すと息が漏れる。

「わたしの美貌が」

「このバカが!」

「だめ、全身が痛いの。触らないで」

「このバカが、ほんとうに無鉄砲なバカが」

 日頃は冷静な彼の慌てた姿は、どこかユーモラスで、思わず吹き出しそうになったが、そのために後悔することになった。笑うと体中が痛みで悲鳴を上げたのだ。

「こんな目に合わせた奴はぶっ殺してやりたい。なにより、櫻子、あんたに怒鳴りたい」と、彼は怒っていた。

「怒鳴らないで、傷に響くの」

「そうか、それは良かったよ。こんなことに首を突っ込むなんて、本当に愚かだ。とっとと帰っていればよかったんだ。いや、わたしが連れ戻しにくればよかったのだ。こんなアホをひとりにしたのが悔やまれる」

 無口な五月端が、彼の会話容量にしたら一ヶ月分くらいの言葉を延々と続けた。

 そして、彼は泣いた。

 驚いたことに、戸隠法律事務所のエース弁護士。誰からも尊敬を受ける知的で冷静沈着な男。彼が、わたしのために泣いた。

「ねぇ、ミチタカ。時差ぼけ? 飛行機で酒を飲みすぎた?」

「櫻子。冗談にしないでくれ。どんなに心配したか、わかっているだろう」

 彼には心から感動せずにおれなかった。こんなわたしを愛するなんて、最初から間違っているにちがいない。しかし、その間違いを訂正するには、あまりに気の毒で言葉を失ってしまう。

 いったいどちらが親切なんだろうか。

 真実と嘘と、彼に何をいえば良いのだろうか。人として尊敬もするし、愛情も持っている。それは、確かにジオンに対するものとは違うが、間違いなく彼を愛してもいた。

「ねえ、ミチタカ」

「傷はどうだ、痛むか? いや愚問だ。痛むだろう」

「ねえ、ミチタカ」

 窓外は相変わらず雲が多く、気持ちのよい晴れとはいえない。五月端はわたしの視線を追って、同じように外を見た。

「ねぇ、ミチタカ」

「言うな。何も言うな。ぜったい言葉にするな。聞きたくもない。言えば、後悔する。ぜったいに後悔するぞ」

 彼の横顔を見つめた。頑固に窓の外を眺める彼の顔は苦渋に満ちている。

 こんな顔をさせるなんて。

 この人は愚かではない。ずっと、わたしの兄に対する想いを知っていたにちがいない。それでも、何も言うなという。

 吐き出せない想いは、わたしの十字架になるのだろうか。

 彼の手がベッド横にそっと置かれた。その手を取るかどうか迷った。ためらいがちに、五月端がわたしの手に手を重ねる。

 ジオン……。

 彼は救急車で運ばれ、緊急手術を受けた。幸いなことにナイフは肋骨にあたり、内臓と動脈を傷つけてはいなかった。あるいは、ジオンは生き延びるための位置を正確に把握して刺したのかもしれない。

 五月端の到着と入れ違いのように彼は消えた。

 わたしの無事を医師に確認しただけで、他に何も言わなかったという。警察の事情聴取は受けると伝えたそうだが、看護師が気づいたときには、病室は空になっていた。

 どこへ行ったのか。どこへ逃げたのか。

 もう逃げなくてもいいのに、ジオンは消えた。

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