王朝最後の末裔 8




 ジオンが、ちらりとわたしを見て眉をひそめ、それから中原へと視線をうつした。

「ジオンさま、やっと、やっとお会いできました」

 中原が、その場で腰を折り、膝をついて、うやうやしく拝礼した。

 呼応するように中原の仲間も入ってきた。胸の鼓動が激しくなる。それは痛めつけられたためではなく、この絶望的な状況に恐怖したからだ。

 ジオンと中原が対峙している。

 三人の男が中心にいた。

 歓喜を宿し狂気に満ちた目をした中原。ジオンに拘束された男。そして、表情の失せたジオン。三人のほかに、少し離れて女とふたりの男がいて、わたしを宙吊りにして縄を持つ男がいる。敵は全員で六人。

 中原が跪いたので、縄を持った大男を除いて、ジオンを中心に、みな腰を落とした。

 ジオンは盾にしていた男を手離すと、男はふらつき、中原に手で足を払われ、その場に平伏した。

「聞きたいことがある」

「謹んで、お伺いいたします。ジオンさま」

「これまで、俺の周囲で多くの溺死体が発見された。それは、全部、おまえがしたことか」

「ジオンさまを、お守りするためになら自分はなんでもいたします」

「香港でも、日本でも、米国でも」

「あなたさまは、我らの主。お守りせねばなりません」

「デトロイトで発見された遺体は、俺の知っているゴーストだろう。なぜ奴を」

「あれは、貴方あなたさまへと導く光の餌にいたしました。申し訳ございません。あなたさまがお消えになって、お探しする術を失ったのです。この女をアメリカに呼ぶためにしたことでございます」

「まったく、いい加減にやめないか。なあ、ガオや」

「ジオンさま」と、彼は目を落とした。

「ご不快にいたしましたこと、心からの謝罪をお受けください。それから、お返ししたいものがございます。少年の頃、あなたさまに治療していただいた聖なるお品でございます。お返しできる日を、どれほど心待ちにしておりましたことか。われらは日々、聖なるお品を前に拝礼し、あなたさまをお待ちしておりました」

 怪我をした子にハンカチを巻いたとジオンは軽く言っていた。それが相手にどんな影響を与えるかも知らずに。彼がジオンに執着する理由は痛いほどわかる。ジオンは魔性の男だ。

 ちらりとジオンがわたしに視線を送った。その目に浮かぶ悲しみ。コンマ一秒にも満たない視線は多くを語ろうとしていた。

「わかった、すべて、おまえの希望通りにしよう。だから、妹は離せ」

「そのようなことを、ジオンさま。まだご理解していただけないのでしょうか。大いなる存在である王に、このような未練があることの重大な過失を。そのモノを水瓶に落とせ!」

 中原のしゃがれ声が聞こえ、同時にわたしは悲鳴をあげた。跪いていた女が隣に来て、わたしの口に猿ぐつわをする。縄が下がり水面に近づいた。

「ガオ。やめろと言っているだろう」

「ジオンさま。あれは存在してはいけないモノです。あの卑しい者が、あなたさまのくびきになるなど、本来、許されざる罪をあのモノは犯しているのです。ジオンさま、大いなる過ちにお気づきなさることを」

 ジオンの目は底深い諦観をたたえていた。わたしたちは互いに見つめ合い、わたしはその先にある絶望を汲み取った。

 はっとした。





 ミー、ミンミン、ミイイーーーンーーン…………



 騒々しい蝉の鳴き声がする。デトロイトで蝉はほとんど生息していない。蝉を見たこともないアメリカ人も多い。

 それなのに日本の夏のように蝉の音が聞こえる。

 ……わたしは兄と並んで歩いている。

 塾をサボって、夏祭りに行こうと楽しみにしている。



 ミー、ミンミン、ミイイーーーンーーン…………



 蝉の声がさらに激しくなり、周囲の音を消し去った。

 わたしはのりのきいた黒地に、赤い曼珠沙華まんじゅしゃげを描いた浴衣を着て、白い浴衣の兄とともに夏祭りに向かう。

 お囃子の音が聞こえた。その陽気な太鼓と笛の音に強く心がゆさぶられる。となりを歩くジオンを見上げる。軽く指の先が触れるたびに心臓が高なった。

 祭りに向かう人々が、わたしたちを追い越していく。夕暮れのオレンジ色の光が街路樹の葉を赤く染めていた。

 兄が笑っている。

 美しい顔をくしゃくしゃにして、さも楽しそうに大声で笑っている。




 わたしは逆さに長く吊り下げられていた。血が頭に上り、ぼうっとして幻覚を見たのだろうか。

 ジオンも郷愁に満ちた表情で、ありえなかったわたしたちの姿を見ているようだ。

 はっとした。

 ──だめ、ジオン。だめよ!

 必死に体を揺らし、ゆるんだ手首の縄を外そうともがいた。

 ジオンは優しげな、それは暗く底なしの深淵を覗いたような諦めに満ちた優しさで、わたしを見つめた。

 それから、誰にとっても予想外のことが起きた。

 スローモーションのように起きた事態を、誰も信じることができなかった。ジオンは右手に持ったナイフで自分の胸を刺したのだ。

 白いシャツに血が吹き出し、赤い模様をつける。それは、浴衣に描かれた曼珠沙華まんじゅしゃげのように真っ赤に布を染めていく。

「な、なにを。ジ、ジオンさま」

 慌てた中原が絶叫した。

「ジオンさまぁあ!」

 中原の悲痛な叫び声が響く。わたしを吊り下げていた大男は、驚きのあまり縄から手を外した。

 バシャンという音をたて、わたしは水瓶に落ちた。

 この瞬間を待ったわたしは冷静にと念じた。手首の縄は緩くなっている。息苦しいが、まだ呼吸は大丈夫。縛られた縄から手を自由にした。足が体の上で重石になって底に頭が落ちた。

 ジオン、ジオン、ジオン。

 心のなかで兄を呼びながら、手で瓶の底を押したが、自分の体に押されて上に行けない。

 パニックになりそうな心を必死に抑えた。

 ジオンを助けなければ、そう、ジオン、愛するわたしの兄。悲しい王。世界を彷徨さまよい、こんなところで命を落とすなんて、絶対に許せない。

 どういう馬鹿力で、それができたのか、自分でも不可解だった。

 わたしは瓶の脇を押して、なんとか水面に浮かびあがった。そのまま、床へと転び落ちる。

 足の縄を必死に解いた。

 目に入ったのは、ジオンを抱えて絶望の淵で嘆く男と、なにもできずにつっ立っている人たち。

 ジオンの顔は青ざめ徐々に色を失っていく。ナイフの刺さった箇所からは血がどくどくと流れていた。

 わたしは中原に向かって叫んだ。

「救急車を呼びなさい! 王が死ぬわよ!」

 中原は誰も認識していなかった。わたしは彼のもとにいき、スマホを奪い、911を押した。

『人が刺されています。すぐに来てください』

『場所は、どちらでしょうか?』

『ここの住所は!』

 誰かが住所を言った。わたしはそれを繰り返した。

『ドラナー通りとジョージ通りの先で、番号は……』

『すぐに手配します。患者の状況は?』

『胸にナイフが刺さって、血が流れて。早く、早く来て』

『ナイフはそのままにしてください。抜くと出血多量でショック死する可能性があります』

 血を止めようと左胸部分を両手で抑えながら、中原がナイフを抜こうとしていた。

「だめよ、中原。抜いたら、ジオンが出血多量でショック死するわ」

 中原の手が宙で止まり、のろのろとこちらを見た。わたしの言っている意味を理解していないようだ。

「ナイフを抜いたら、王が死ぬわ!」

「死ぬ? ……バカな、そんなことがあるはずは……」

「救急車を待ちなさい。王を殺したいの? あなたは臣下でしょ。王を守りなさい」

 わたしはつとめて冷静な声を出した。ジオンと目があった。兄はうっすらとほほ笑んでいる。わたしに向かって、ほほ笑んでいる。

「これでいいんだ。櫻子」

「ジオン」

「もう、恐れることはなくなる……。ガオや」

「ジ、ジオンさま」

「おまえも、もうこの忌まわしいくびきを終わらせよ。これで、すべては終わりだ」

 中原はガクリと膝を落とした。王の完璧な拒絶が咀嚼そしゃくできないようだ。

「な、なにが起きてる。なにが起きてるんだ」と、ぶつぶつ狂ったように呟いている。

 そして、呪文のような不気味な詠唱をはじめた。

 その声に、大男も別の男たちも女もひざまずき、額を床に擦り付け祈るような姿勢で動かなくなった。

 これは、このカルト集団の呪文か祈りなのだろうか。

「フワァアアア、フワァアアア」という音が聞こえる。

 徐々に中原の声は地獄から響くような恐ろしげな声になり、ふっと静かになった。祈りが終わったのか、次に悲鳴を上げる。それは悲鳴というより、幼い子どもが泣き叫んでいるようだった。

 張り詰めていた糸が、プツンと切れたのだろう。

 頭を奇妙な形でふり、王として讃えるジオンを眺め、水瓶みずがめを見た。中原は狂ったように再び呪文を唱え、発作的に水瓶へ向かい頭から飛び込んでいた。

 わたしは、ただそれを見ながら、ジオンの胸を抑え必死で止血しようとした。

「かわいそうな、ジオン。ねえ、ジオン、言ったじゃない。あなた、わたしに言ったじゃない。逃げる時は前だけ向いて逃げろって、けっして振り返るなって、なぜ、振り返ったの。馬鹿ね、本当に馬鹿だわ」

 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

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