王朝最後の末裔 7



 中原の背後に大男が控えていた。

「やれ」と、低い声で中原が命じる。

 男が近づいてくる。ジリジリと壁伝いに這って逃げたが、すぐに捕まった。大男は何も言葉を発しない。あるいは、口がきけないのかもしれない。それが余計に恐怖をあおる。

「こ、来ないで」

 こんな弱々しい声で嘆願したくなかった。しかし、まるで空気を吐くように、言葉がかってに飛び出した。

「来ないで!」

 大男は躊躇ちゅうちょなく、むしろ乱暴に足首の縄をつかんだ。

 咄嗟に「やめて」と叫んだつもりが、恐怖に喉が詰まって奇妙な口笛のような声が漏れただけだ。

 大男はむさ苦しい顔に感情をあらわさず、物を扱うように、わたしの足首を手荒に持つと引きずった。あらん限りの力でもがいたが、鋼のような手はビクともしない。そのまま足首をつかまれ、乱暴に床を引きずられる。

 わたしは床に後頭部を打ち、悲鳴をあげた。

 捕獲された動物のように引きずられ、水瓶みずがめのある場所で、天井から吊り下った縄に足首を結ばれる。

 男が軽々と縄を引く。体をエビのように曲げて抵抗したが、ザッザッという恐怖に満ちた音とともに足首から天井へと昇っていく。

 水瓶みずかめの上に吊り下げられたときだった。中原がしゃがれ声でスマホに話しかけた。

「ジオンさま」

 ジオンさま?

 天井から吊り下げられ、かすかに揺れながら、それでも必死でスマホを見た。予想通り中原が持っているスマホはわたしのものだ。指認証で開くようにセキュリティを設定している。気絶している間に認証されたのだろう。

「ご覧ください。ジオンさま」

 スマホの画面がこちらを向いた。よく見えないが、ジオンの顔が歪んで見える。わたしの姿を見せ、脅しに使っているのだ。

「その女が俺となんの関係がある」

 ドスの聞いた低い声がスピーカーから聞こえた。兄さん、ダメよ。こいつらに捕まってはダメ。

「先ほども申し上げましたが、ジオンさま。ご理解していただけないようで、ですから、王家の摂理をお教えいたします」

 どういう意味? 

 中原が右手を上げ、すっと下へおろした。

 大男が持っていた縄をゆるめる。わたしは、いきおいよく水瓶みずがめの水面に顔から落ちた。

 い、息ができない。鼻から水が流れこんでつまる。血の匂いがした。

 もがいてもがいて、暴れた。どれくらい、そうやっていただろう。足首の縄が引かれ、水瓶みずがめの上に戻った。

 空気を求めて、咳き込む。鼻奥がツーンと痛む。

「条件を言え」

「ジオンさま、家臣である卑しい者が条件を申し上げるなど、畏れ多きことです。申し上げなくてもご存じのはずです。王家の存続。あなたさまは我が王族の最後のおひとり。お戻りくださって、子孫をお残しください」

「いいだろう」

 ジオン。せっかくこれまで逃げ切ってきたのに。だから、後ろを振り返るなとメッセージを送ったのに。

「女を離せ。俺のせいで死ぬと目覚めが悪い」

「簡単に手離すわけにはいきません、ジオンさま。これまで何度も貴方あなたさまに近づいても、離れておしまいになりました。今度こそ、失敗は許されないのです。どうか、自分の切なる願いをお聞き届けください」

「ガオよ、困ったな。そうしたくないんだ」

「ジオンさま、なぜにお逃げになるのですか」

「俺はな、おまえが追いかけてくるのを、ずっと見張ってきたんだよ。だから永遠におまえは俺に到達できない。姿を晒して追いかける者を追跡する方と、隠れて逃げる者を探す方と。どちらが有利かは歴然としている」

 ガオ? それが中原の本名なのか。ジオンは、そう呼んだ。そうか、以前に言っていた高浩然ガオハオリャンが中原なのだ。とすると、インターポールも嘘? 外務省で会ったのだ。身元確認も厳しいはずだ。

「ジオンさま」

「なあ、ガオよ。もうやめないか。俺は心底から疲れてしまった」

「王さま、心より深く、お称え申しあげます」

「おまえは子どもの頃から奇妙な洗脳を真に受けてきたな。おまえと仲間たちがサフィーバ財団の本流からも疎んじられていると、まだわからないのか。もうそんな時代じゃない」

 中原の顔が不気味に歪む。頬にチックが走り、ピクピクと動いた。この男は自分の思想でがんじがらめになって誰の言うことも聞かないようだ。カルトに囚われ、自らカルトの頂点に立った哀れな男だ。

「ご理解いただけないのは残念です」

「妹をどうするつもりだ」

「彼女は、あなたさまのくびきとして、われらが大切に保管させていただきます。生きてか、あるいは生きていなくとも。どちらの形であろうとも問題はありません」

 逆さ吊りのままで脳に血がのぼっていく。

 ボーとした頭でも理解できた。束縛を何より嫌うジオンの最大の束縛がわたしとは皮肉すぎて笑える。

 彼らが注意を逸している間、激しく手首を動かして縄をゆるめようとした。壁で皮膚を傷つけ擦りつづけた縄が少しずつゆるんでいく。

 わたしは叫んだ。

「ジオン、あんたなんか大っ嫌いよ。こんな面倒に巻き込んだなんて、大っ嫌いよ。わかる? 大嫌いなの!」

「ジオンさまに、なんて口の利き方だ! 黙れ!」

 その時だった。ガタンと音がして鉄の扉が開いた。ふたりの人間が入ってきた。知らない男と、その男の首根っこを抑えて、首筋にダガーナイフを突きつける男。

 ジオンだった……、なぜここに。

「ガオ、珍しく気が合ったな。俺もそう思うぞ。櫻子、黙ってろ」

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