王朝最後の末裔 6 




「おや、顔色が悪いですよ。今はまだ気絶してもらっては困ります」

 そう、こいつの言う通りだ。気絶なんて容易たやすい。痛みに身を任せれば、身体が悲鳴をあげる。頭がふらふらして、簡単に意識を失いそうだ。

 もういい、もうがんばらなくていい。

 それが最後だった。ガクンと頭が下に落ち、次の瞬間には、すべてが飛んでしまった。


 ………


 再び意識が戻ったとき、わたしは一人で床に転がされていた。周囲に、まったく人の気配がない。身動きすると、殴られた頬や鳩尾が痛烈に悲鳴をあげる。口内で血が溶け、血生臭く胃液が迫り上がった。すこし動くだけで足の筋肉がつって激痛が走る。

 泣きそうになって涙を振り払った。

 中原はいったいどんな意図があって、こんなことをするのか。まるで嫉妬深い女が寝取られた腹いせに復讐しているようだ。

 はっとした。

 あの男はわたしに嫉妬しているのかもしれない。その自覚はないだろうが、痛烈な嫉妬に狂った人の所業にも似ている。

 ──だからといって、慰めにはならないわ。今は、ともかく生き延びる方法を考えて戦うの!

 体臭がひどいことに気づいた。

 いったい、どのくらいここに囚われているのだろう。喉が恐ろしいほど乾き、キュルキュルと胃が泣く。

 口内に溜まった血を、ぷっと吐き出した。

 それから体を回転させて、床に腹ばいになる。動くたびに油汗が浮かぶ。

 カサカサカサ……。

 かすかな音がする。音のもとを探して悲鳴をあげそうになった。

 黒光くろびかりする三センチくらいのゴキブリが床を這い回っていたのだ。

 ギャッと、悲鳴をあげそうだが必死に我慢した。

 普段なら大騒ぎして五月端に笑われただろう。あの普段の日々は、なんと平和だったのだろう。

 肩に力を入れ床から顔を上げ、ともかく、この場から逃げなければと思う。わたしは床を芋虫のように這った。

 体から何かが落ちていく。

 数匹のゴキブリが体を這い回っていた。餌だと思われたのか。何もかもが、わたしを餌にすると思う。笑うしかない。痛みに悲鳴をあげるより簡単だ。わたしは狂ってしまったんだろうか。

 中原が戻ってきたら……。

 いや、戻ってくるのだろうか?

 奴は拷問すると言ってから、時間をかけている。何をしているのだろう。あるいは、誰かを待っている?

 床を這って転げながら、窓際に向かう。床は汚れており割れたガラスの細かい破片が素肌に触れ傷つける。

 すべての感覚を意識的に無視した。

 人間とは面白いものだと思う。

 最悪な状況で考えることは、ただ生き延びたいということだけ。生きるために何をすべきかが大事になる。

 わたしは這った。必死に這いつづけた。滴る汗を拭く手立てもなく、ただただ這って這って窓ぎわに向かう。

 ゴツっと音がした。壁に頭を打ったのだ。目だけ動かして窓ぎわに辿り着いたことを知った。

 Tシャツとクロップドパンツという手軽な姿でホテルを出てよかったと思う。これがワンピースとかスカートだったら、とんでもない姿になっただろう。こんな場合に、いつもなら気にしない身なりを考えるなんて、まったく皮肉にもならない。

 心臓の鼓動が激しく、胸が大きく上下した。エアコンがないので、汗でびしょ濡れになっている。目に汗の粒が入ったがぬぐえなかった。

 ああ、クッソ。

 あのクソ中原。思いっきり殴ってやりたい。さぞ、爽快だろう。

 わたしは人の良いところがあって、他人に嫌味を言われても気づかないことが多い。あとになって悔しくて地団駄ふむのだが、今回は違う。嫌味な戸隠所長でさえも、優しい天使に思える。

 だから、生きて、生きて、やり返してやる。

 がんばれ、わたし。

 後ろ手に縛られている両手を壁の角に、押しあててずりあがった。勢いがつきすぎて後頭部を打ったが、なんとか壁に背中を預けて座ることができた。

 息が切れる。

 いったい何時だろう。

 ざわざわと木を揺らす風の音が聞こえてくる。

 わたしは壁の角に両手を縛る縄をこすり付け、ひたすら上下運動を繰り返して縄を立ち切ろうと絶望的な作業を続けた。

 剣道を習っていたので、竹刀を握る手の皮膚は厚いが、それでも、うっかり擦れて皮膚を傷つけると、するどい痛みに悲鳴がこぼれる。

 泣きたかった。

 それは痛みよりも、この手枷足枷の絶望的な状況にだ。折れてはだめだと励まして、わたしは無限ループを繰り返すように、壁の鋭い角に縄を擦りつける。どのくらい切れたのか確かめる術はないし、いっそ、わからないほうがいい。ほとんど切れてないと知れば、敗北感で挫折してしまう。

 ドアが開く音がした。

「大人しくは、してなかったようですね」

 しゃがれ声が聞こえ全身が泡立ってくる。絶望に心が沈む。わずかな希望が消えてしまった。

「なんともはや。あなたさまの諦めの悪さは、実に賞賛に値します」

「う〜〜」

 わたしは怒りをぶつけようとした。しかし、動物的なうめき声が出ただけだ。この声は、はじめてジオンが家に来たとき、玄関先で唸っていた声と似ている。

 そう、同じ声だ。

 あのうなり声は、絶望の叫びだったのだと、今になって気づいた。

 まだ十三歳の子どもだったジオンができる必死の抵抗だったのだろう。いったいどんな思いを抱きながら、兄は日本に来たのだろうか。

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