第12話

 5限と6限の間にある休み時間に私は教室に戻ってきた。

 何人かのクラスメイトが気を遣って声をかけてくれたが、私は曖昧に笑って誤魔化した。


 自分の席に戻って、次の授業の準備をする。


「はぁ……」


 思わずため息が漏れる。

 結局、私は藍花の手のひらの上で踊り続けただけだった。

 その果てに糸が切れて、もう踊ることすらできない。

 悠一は私の彼氏だと思っていた。それも私の勘違い。私と悠一が付き合うずっと前から、藍花は悠一と……。


「はぁ……」


 そこまで考えて、私は息を吐く。意識して深呼吸をしないと、胸にふたがる憂鬱が、喉までせり上がってきてそのまま詰まって窒息してしまいそうだった。

 しばらくはこの陰鬱な気分とも付き合っていかなければならないだろう。私は独りでその辛さを受け止めなければならない。


――まぁ、しょうがないか……。


 とにかく今は、時の流れとともに徐々に薄れていくことを信じるしかない。

 次の授業の準備をしていると、悠一が教室に戻ってきた。仲の良い男子と一緒に喋っている。

 ぱち、と目が合ってしまう。

 そのとき思わず目で追ってしまっていたことに気付いた私は、反射的に視線を外して、窓の方を見る。すると今度は視界に藍花が入ってくる。

 藍花は自分の席で一人、熱心にスマホを触っていて、私の視線に気付く気配がない。


「蓮乃」

「ぁ、悠一。どうしたの?」


 話しかけられてしまった。普段そんなことはないのに。


「いや、なんか今さ目、逸らしたくない?」

「う、うん。ちょっと恥ずかしくって……」

「ふーん……。俺と目合わせるの、緊張するってこと?」

「そりゃあね……。悠一かっこいいからさ」

「蓮乃だって可愛いよ」


 悠一は「彼氏」として私にそう言って、私は「彼女」としてそれに相応しい反応を返す。

 ただひたすらに空虚なやりとり。まるで出来の悪い人形劇を見ているようだった。


――ねぇ悠一。もう無理しなくていいよ。私に優しくしなくてもいいんだよ。


 そう言ってしまえたらどれだけ楽になれるだろう。

 でも、それができないのは――未だに、悠一を諦められない気持ちがあるから。

 悠一が話しかけてくれてうれしい。

 目を合わせてくれてうれしい。

 だから。

 私を本当に好きでいてくれたら、もっともっとうれしかった。


 なのに。


 私は、彼の目に映る自分を見つめる。健気にも「彼女」として完璧な振る舞いを見せる自分。

 その全部に、偽りなんてなかった。ないはずだった。だってまだ悠一に何も言われていない。「ごめん」とも「別れてほしい」とも「好きじゃない」とも。


 ――私のこと、好き? 嫌い? どうでもいい?


 なんでそんなことを確かめないといけないんだろう。

 誰のせいで、こんな思いをしないといけなくなったのだろう。

 

 ――全部、あの女の仕業。あの女が、人の気持ちを弄んだからじゃないの?


 そう考えたとき、私の心の底に澱のように溜まったどす黒い何かがざらついた音を立てる。

 その音は酷く不快で、凪のような落ち着きを取り戻した私の心中を少しずつ波立たせる。


「蓮乃?」

「ん、ごめん。なに?」

「いや、昨日の埋め合わせに今日の放課後どっか行こっかって」

「あぁ、今日は用事あるから無理かな。昨日のことなら気にしなくていいよ。部活忙しいもんね」

「そうか、蓮乃が良いならそれでいいんだけど。ごめんねドタキャンして」

「大丈夫だよ」


 そう言ったとき、六限目を告げるチャイムが鳴って先生が教室に入ってくる。

 悠一も慌てて自分の席に戻っていった。

 授業が始まっても、私はずっとうわの空だった。

 教卓の前に座っている悠一の背中をぼうっと眺めながら、同じことをずっと考え続けていた。


 このまま私が全部を飲み込んで黙っていれば、何も変わらないだろうか?

 藍花と悠一が私に隠れてよろしくやっていても、見て見ぬふりを続けていれば、悠一と私の関係もまた続くだろうか?


「それはありえない」


 火を見るより明らか。藍花がそんなことで満足するはずがない。きっと何か手を打ってくる。 

 じゃあどうする?


「藍花を黙らせる」


 誰にも聞こえないくらい小さな声でぽつりと呟く。教師の声でかき消されて誰にも聞こえない。

 窓の外は雲ひとつない快晴。グラウンドからはホイッスルの音。廊下側からは楽器の音色が薄く聞こえる。


 人知れず復讐を決意する。


 そして私は考える。

 どうやって復讐するのか。そのために何が必要なのか。

 私ひとりでできることなんてたかが知れている。誰か、協力者が必要だ。

 私は祈るように両手を組んで額につける。

 

 ――さっきの今で申し訳ないけど、もう一度、力を貸してほしい。


「いいとも。きっとそうなると思ってた」


 その瞬間を見計らったように、突如として耳元で声が聞こえる。


「ひゃっっっっ」

「おーい。どうした出海」

「いえ、ちょっと机の上に虫がいたので……。もう大丈夫です」

「そうかー。先生も虫は苦手だなー」

 

そう言って、また授業に戻る。ほっと一息。


「おやおや、これで何回目だい? 君は学習しないね」


 肩を竦める天使。私は怒鳴る代わりにキッと睨みつける。来ると分かっていてもびっくりすることぐらいあるの。


「おぉ、こわいこわい。悪かったよ」


 しょうがないから許してあげることにする。


「で、姿を見せてくれたってことは協力してくれるってことでいいの?」

「なに。君が望めば、僕はいつでも君のところに現れる。そう言ったはずだよ。君の望みを叶えるために、ね。望んだだろ? 願っただろ? 祈っただろ? もう一度過去に遡れたら……ってね」


 クピドは机の上に立って、私を見上げる。その青い瞳は私の心の奥底を丸ごと見透かしているようで、どうにも居心地が悪い。私はただ復讐したいって思っただけ。


「隠さなくてもいい。本当に復讐したいだけなら今からでも十分にできるだろ? それを選ばず僕に頼るってことはつまり過去に戻りたいということだ。じゃないか。それにそもそも君は何も悪くない。悪いのは君を復讐へ駆り立てた樋口藍花と御影悠一だ」


 そうだよね。私は、被害者なんだから。


「そうだとも。君はあの二人の手のひらの上でいいのかい? 偽りの恋人と真性の悪女に君の純粋な心を弄ばせたままでいいのかい?」


 よくない。私は私をこんな目に合わせたやつを絶対に許さない。


「だったら僕の手を再びとればいい。過去を君の思うままに変えてしまうのもいいし、全てを知っているアドバンテージを活かして目にもの見せてやってもいい」


 クピドはそう言って私の方に小さな手を伸ばす。


「君は、君の思うように、編み直せばいい。そしてその行く末を僕に見せてくれ」


 私は恐る恐る左手を伸ばし――その薬指がクピドの手に触れた。

 途端、眩い光が私の視界を埋め尽くす。


「可逆性恋愛循環――二巡目開始」


 クラスメイトたちのざわめきの中に一際深みのあるクピドの声が響く。それを最後に私の意識は一切の澱みのない白に塗りつぶされた。

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