第11話

「……ぅう……うぅ……ひぐっ」


 ごく僅かな時間に大量の情報を叩き込まれ、私の思考回路はショートしてしまっていた。

 ただ、一つだけはっきりしているのは、辱めを受けたということ。地面に這いつくばらされ額を擦り付けて赦しを請うなんてこれ以上ないくらい惨めな屈辱だった。こんなのは私の思い描いた理想ではない。こんなはずじゃなかった。こんな、まるで返り討ちにあったようなそんなこと…………。


 誰か助けて。いや、だれかじゃなくてたった一人のあなたに助けてほしい――。


「ゆういちぃ…………」


 でも、もう無理なんだ。悠一は私のこと好きじゃない。重くて、めんどくさくて、メンヘラだって思われてる。なのに、私と付き合っている。意味がわからない。もう彼のことが何にもわからない。


 私が悠一だと思っていたのは本当の悠一ではなく、私のためにデザインされたニセモノ。

 きっとあの録音の中の悠一が本当の悠一で、きっとそれは私の前では出てきてくれない。


「――編み直しはどうやら失敗に終わったようだね」

「く……ぴど……。ねぇ、私……だめだったよ」

「君のその様子を見れば誰でも察しはつくさ」


 天使は地面に降り立つ。端正な顔が暗く翳っている。


「何があったのか僕に話してみてくれないか? 誰かに話すことで多少は気も紛れるかもしれない」

「ごめん…………。今はそんな気分じゃない……」

「僕は待つよ。君が話したくなるまでね」

「でも、昼休みが……」

「そんなのどうでもいいじゃないか。ほら、ちょうどあそこなんかは陰になってるよ」

「そっか……そうだね」


 それから、私は長い時間をかけてさっきあったことを全部話した。

 クピドはただ黙って聞いてくれていた。そして私が話を終えると「辛かったね」とぽつり呟いた。


 既に午後の授業は始まっており、学校は静まり返っている。空はいつも通り青く、日差しが屋上のコンクリートを照り付けている。日陰に座っていても、むっとした空気が肌にまとわりついて不快だった。

 私は、ぼうっと遠くの雲を眺める。


「それにしても、不思議な話もあるものだね」

「え?」

「今の話を聞いていると、御影悠一は君のことを好ましく思っていないのに、君と恋愛関係にあった、ということだろ? 人間というのはそんな不合理なことをするものなのかい?」

「知らないよそんなの……。私にはわかんない」

「御影悠一は君と男女の付き合いをしつつも、樋口藍花と逢瀬を重ねていた。君が聞いた録音の内容からすると、二人の関係性はきっと一朝一夕のものではなかったのだろう。だとすれば、御影悠一が君と付き合う前から樋口藍花とはそういう関係性だったのではないかな?」

「……なにが言いたいの?」


 話の向きが見えない。


「物事の順序だよ。つまり御影悠一は、樋口藍花という恋人がいるにも関わらず、好きでもない君と付き合ったのではないか、ということだね」

「それはないよ。だって告白してくれたのは悠一だもん。もちろん私だってアピールしてたけど」

「アピールをしていたということは、君が御影悠一に惚れていたことは周囲の人間にとっては自明だったわけだ」

「どうだろ……。あぁ光穂にはバレてたっけ」


 光穂はその辺りすごく察しが良くて、私が悠一に対して「ちょっといいかも」ぐらいに思っていた時に既に気づいていた。恋愛に興味がないのに、いや、恋愛に興味がないからこそ他人の恋心に敏感になるのかも知れない。


「樋口藍花はどうなんだい?」

「え?」

「樋口藍花は君が御影悠一のことを慕っていたことを知っていたのかい?」

「…………そういえば、そんなことも言っていた気がする」


 そうだ。どうして忘れていたんだろう。

 樋口藍花は確かに言っていた。


 ――――「あなたが悠一のことを好きなのもすぐに気がついたし、悠一が私のことを好きなのもすぐに気がついたし、あなたが私のことを嫌いなのもすぐ気がついた」と。


 そして、それらについて順序を特定するようなことは言っていない。

 つまり、私が悠一のことを想っていることに「いつ」気がついたのか、

 悠一が自分に惚れていることに「いつ」気がついたのか、

 自分が私に疎まれていることに「いつ」気がついたのか、

 それらの「いつ」がどういう順序で起こったのかは一切語られていない。


 だからそう、例えば。


 「悠一が自分に惚れていること」に気がついたあと、

 「私が悠一を好いていること」や「私が彼女を嫌っていること」を知ったら。


 「他人の心を弄ぶことに執着する人間」は何を思いつくだろうか。思いついてしまうだろうか。


 樋口藍花は言った。――特に蓮乃、あなたにはとっても愉しませてもらっちゃった、と。


 あれは、この上なく満足げな表情だった。この屋上でまばたきをするたびにどうしても網膜の端々にちらついてしまうほど、それは深く刻まれている。


 きっとあの表情は、単に玩具を遊んだだけでは浮かばない。

 それこそ――――長く、長く下ごしらえした料理を心ゆくまで味わったあとのような、そんな表情だったんだ。


「まさか――、でも…………そう――、そうなんだ」

「気づいたかい?」

「……最悪なことにね。というかクピドこそよくわかったね」

「僕に人間のことはわからないよ。でも、だからこそ推測できることもある。……はっきり言って、んだ」

「なるほどね……」


 それは同感だ。悠一と関係性がありながらも、悠一が私と付き合うことを許した。

 いや――きっと彼女は


 方法なんてわからない。だけど、彼女ならきっとできる。人の心を底まで見通せる彼女なら。


「君こそ、存外落ち着いているように見えるね。もっと取り乱すかと思った」

「はは……。正直、私の理解できる範囲をあまりにも超えちゃってるからね……。それに今更気づいたところで何もかも遅すぎるし、そもそも始める意味すらないっていうか……」


 私がクピドの手を取ったのは悠一を取り戻すという目的があったわけだけど、そもそも悠一は最初から私のものじゃなかった。


「結局……こうなっちゃう訳だしね」


 編み直したところで、終着点がここなら意味がない。結局、運命は変えられないということを自分の手で証明してしまった。


「樋口藍花や御影悠一に対する恨みつらみ、怒りはないのかい?」

「……それは、まぁある」


 彼氏が奪られたーって騒いだはいいものの、実は彼氏と女狐が結託して私を陥れようとしてましたーなんて。こんなの私、ピエロじゃん。


「でも、もう私にはどうすることもできないから……。ま、今日は家に帰って布団かぶって大泣きするよ」


 そう言って私は立ち上がる。スカートについた砂ぼこりを払ってクピドを見た。


「……そうかい。まぁそれも一つかもね」

「うん。クピドにはすっごい助けられた気がする。私にやり直す機会をくれて、手伝ってくれたりこうやって話聞いてくれた……とにかくすっごいお世話になっちゃった」

「やめてくれよ。僕は自分のためにやっただけさ。それに君の力になった覚えもない」

「嘘だぁ。だって昨日の夜とか助けてくれたじゃん」

「あれは…………君があまりにも可哀想だったから、ちょっとばかり同情しただけだよ」


 クピドは鼻の下を指でこすりながら、ぱたぱたと背中の翼を小さく動かす。


「ふーん。そうなんだ。じゃあそういうことにしておいてあげよう」

「なんでそんなに偉そうなんだ」


 そうやって二人で話していると、聞き飽きたチャイムが校内から響いてくる。五時間目が終わったようだ。


「……さ、私は教室に戻ろうかな。六時間目には出ないと」

「そうかい。じゃあ僕はまた人間の世界を見回ることにするよ」

「じゃあお別れ、だね」

「ところがどっこい、そういうわけでもない。僕ら天使と一度でも関わってしまうと、その縁はなかったことにはできないんだ。また君が強く念じたらきっと僕は君の傍に現れるさ」


 クピドは私の肩口から飛び立つ。背中の翼を動かしてその場でホバリングする。


「そうなんだ。じゃあまた話し相手が欲しかったら呼んでもいい?」

「僕と話すことがそれほど重要で、そこに強い思いがあるなら、きっと僕は応えるさ」

「えーじゃあ絶対無理じゃん」

「そうかい? 再会の時は結構早いと思うけどな、僕は」


 私がぶーぶー文句を言うと、クピドは困ったように笑った。

 昼の日差しはいつの間にか雲に邪魔されて屋上に届かなくなっている。グラウンドからは体育の授業を終えた生徒たちがそれぞれ更衣室の方へ向かって歩いているのが見える。


 入り口から死角になっている場所で、私とクピドは最後にまた少し仲良くなった。

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