Round 1 ——奪還開始——
第4話
「……ずみ。…………ーい……。出海ー起きろー」
そんな声が聞こえてくる。
同時に背中をつつかれる感触。
「っっっっ」
私は弾かれたように顔を上げる。
いつもの教室の風景。見慣れた角度から見る黒板と教壇。そこに立っている数学教師が呆れたように私を見つめている。
「起きたかー? あんまり俺の授業で寝てくれるなよー。俺だって悲しいんだからなー」
「あ……すいません……」
「体調が悪かったらすぐに言ってくれよー」
この先生はいつも間延びした喋り方をするのが特徴で、そのせいで昼ごはんを食べた後の五限や六限の時はかなり眠くなる。授業自体はかなり緩く、大きな声で怒るところなんて見たことがない。
現在は六限。15時を少し過ぎた頃だ。
私は徐々に状況を把握する。黒板の右端に書かれた日付を確認する。
「マジだ…………」
思わずそう呟いてしまう。すぐに気がついて辺りを見回すが誰も気にしている様子はない。嘘みたいな話だけど、私はちゃんと二四時間前に戻っているらしい。
――クピド、すっごいじゃん……!!
心の中で喝采を上げる。実際に、私はこの日の数学の授業で何があったかを覚えている。この日は少しだけ授業が早く終わって先生が一足先に職員室に戻っていくのだ。
私は一番廊下側の真ん中の席に座っている。悠一は教卓の真正面で、ここからだと悠一の横顔が見えて、私は気に入っていた。
だけど、今悠一の顔を見るとどうしても胸が抉られるように痛む。
――悠一……。きっとあの女に誑かされただけだよね。
私は切ない気持ちを抱えながら大好きな彼氏の横顔を見つめる。うん、やっぱりかっこいい……じゃなくてっ。
悠一は真面目そうにノートを取っているように見えるが、目線はちらちらと黒板の上に掛けられた時計の方を見ている。早く部活に行きたいのだろう。
名残惜しかったが、私は悠一から視線を外して女狐の席を見る。
藍花は一心不乱にノートを取っている。私の視線なんて気付いた素振りもない。先生の話に時折頷きを返しながら手を動かしている。
傍目から見ると完璧な優等生の姿がそこにはあった。
しかし、今の私ならわかる。あの女は周りからそう見えるように振る舞っているだけなのだ。『授業に熱心に取り組む優等生』という隠れ蓑を作って教師からの信頼を得るために。
――なにそれ。キモすぎ。
樋口藍花の計算高さというかあざとさというか面の皮の厚さというか、とにかくイライラが募る。
きっと悠一はそういう藍花の嘘の姿に騙されただけなのだ。あの女が自分でこしらえたキョゾウってやつに。
――だったら、目を冷ましてあげるのも彼女の務めだよね。
私は板書途中のノートをいっさい無視して現状をまとめる。確かこの後は……。
・今は二四時間前。ちょうど六限。この後六限終了の五分前に先生は教室から出て行く。
・悠一は部活に向かう準備を始め、その他のクラスメートも雑談をしながら荷物をまとめる。
・チャイムが鳴ると同時に悠一は教室を飛び出してグラウンドへと向かう。
・それを見て、自分は三組に向かって光穂と一緒に帰る。
――確かこんな感じだったはず……。
私は一度手を止める。
そういえば、クピドの姿が見えない。てっきり一緒に来ているのかと思ったけどそうじゃないのかな。でもそっか。二四時間前の私はまだクピドとは会っていないから、ここにクピドはいないってことになるのか。
「いや、そうじゃないよ。黙ってただけさ」
「ひゃっっ」
耳元で囁かれたせいで、私は変な声が出てしまう。
クラスメイトと先生が訝しげに私を見る。
「おーい。出海どうしたー」
「い、いや! なんでもないです! ちょっと机の上に虫が……」
「そうかー大丈夫かー」
「あ、はい。どこかに飛んでいったので……」
私は恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら腰を下ろす。うぅ、こういうやらかしをすると、周りからの視線が痛いというよりは、なんというか空気がしんどくて居心地が悪い。
「いやぁ、ごめんごめん。急に声をかけたのは失敗だったかな」
背中の翼でふわふわと浮いて私の肩から離れたクピドは机の上に着地する。
彼の姿が見えるのも声が聞こえるのも私だけなのだから、あまり驚かされるようなことをされると変に見られてしまう。
私は非難の視線をクピドに向ける。クピドは私の視線の意味を十分に理解したらしく、バツが悪そうに頬をかいた。
「驚かせるようなことをして悪かったよ。それより、既に気がついていると思うけど、無事君は二四時間の時間遡行を果たした訳だけど、感想はどうだい?」
――いやマジですごいよ! ありがとう!
私は小指でクピドの頭を優しく撫でようとするが、背中の翼を器用に動かして私の指を避ける。
「だからまだ礼を言うのは早いと思うけどね。君にとってはここからがスタートだろ?」
そうだった。私は、悠一をあの女の魔の手から救い出さなければならないのだ。こんなことでいちいち喜んでいる場合ではなかった。
私は気を引き締め直してシャーペンを握る。兎にも角にもこの後の行動計画を立てないと――。
「じゃーここの問題を……出海、解いてみろー」
「えっ、あ、はい」
――良いところだったのに。
私は内心で舌打ちを漏らすと黒板の前まで歩く。いつもなら急に当てられるとテンパってしまうが今はそんなことにはならない。なぜなら私にとってこの問題は既知なのだ。
私は余裕綽々でチョークをもち、問題を解き始める。
そもそも、あまり複雑な問題ではない。私はあっさりと問題の答えを記した。
「よし。じゃあ説明してみろー」
「…………説明、ですか」
ひゅっと背筋に寒気が通る。
「どうしたー? いつも言ってるよなー? 解法を丸暗記するだけじゃ力はつかない。どういう論理や意図があって立式したのか、変数を設定したのか、説明できないと本当の意味で理解したとは言えないってー」
私は背中がじんわりと汗ばんでいくのを感じた。
この問題を解いたという記憶はある。そしてその時、私は確かに説明したはずだった。上手くできたかは覚えていないが、ここまで焦ったような記憶はない。
――なんで。
募る焦りはさらに冷静さを奪い、私は落ち着いて思考できなくなる。
何も言えないまま、沈黙で膨らんだ風船が教室の中を徐々に占めていく。その風船に圧迫されるように、私は粘っこい息苦しさを感じ、身体は新鮮な空気を求めて浅い呼吸を強いられる。
クラスメートからの無言の圧力が痛い。
『さっさとしろよ』
『こんなの簡単だろ』
『解けてるのに説明できないって誰かの解答パクったんじゃね』
実際にそんなことを思っている生徒はほとんどいないのだろうけど、どうしても悪く思われているんじゃないかと疑ってしまう。
――誰か助けて。
そう思うけど、私が助けて欲しいのは『誰か』ではない。
私は縋るような目で悠一に視線を送る。悠一は心配そうに私を見ていたが、私と目が合うとひとつ頷いて挙手しようとする。
「先生、よろしいでしょうか」
その時、凛とした声が体に張り付くような重たい空気ごと切り裂いた。悠一は挙げようとした手をそのまま下ろす。
声の主は教室の窓際最後列で綺麗な姿勢で挙手していた。
「樋口かー。なんだー」
「出海さんには難しいみたいなので私に代わりを。このままでは時間内に授業が終わらないかもしれないので」
「……しゃーないな。戻っていいぞ出海ー。樋口―、そこでいいから説明してみろー」
私は小さく「はい」と返事をすると席に戻る。
藍花は既に話し始めており、その話しぶりは立て板に水を流すようによどみがない。
私は席に着くと、そのままシャーペンを取りノートを取るそぶりを見せる。シャーペンの芯はすぐに折れたが、私は気にせず力の限り、芯のないシャーペンでガリガリとページを削る。
もしここが自分の部屋だったら、大声で叫びながら枕を地面に叩きつけているところだ。
――あの女、どうでもいいところででしゃばって来んなよ。
――せっかく悠一に助けてもらえるところだったのに。
――しかも出海さんには難しいみたいなので、って何よ。何様のつもり? ほんっとに意味わかんない。うざ。
大嫌いな女に手を差し伸べられた挙句、馬鹿にされた上に若干憐れまれる。
悠一を奪われたことに次いで、屈辱ランキングのナンバー2に堂々入選だ。くそが
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