第5話

 授業自体はその後、特筆することはなくあっという間に終わりを迎えようとしていた。

 頭に血が昇っていた私も、少々時間を置けば落ち着きを取り戻しつつあった。元からあの女に対して抱いている感情は、敵意と怒りと嫌悪しかない。ここで発散できない怒りを溜め込んでもやもやするよりも、自分の目的のためにやるべきことを見定めた方がいい。


「いやはや、さっきは荒れていたねぇ。君の心の声がうるさくて叶わなかったよ」


 ――大丈夫。もう落ち着いた。それよりも聞きたいことがあるんだけど。


「なんだい? 難題はやめてくれよ? なんだいだけに」


 ――なんで過去と違うことになってるの?


 私はあの問題であそこまで大失敗した記憶なんてない。もちろん藍花が私の代わりに問題を解いたなんてこともない。それに五分前に終わるはずだった授業はもう残り二分ぐらいになっている。何もかもが記憶と異なっているのだ。


「それは当たり前だよ。なぜなら遡行してきた君が、この後どうしようかと考えた時点で、いやそれよりもっと前――現状を把握しようとした時点で、君の記憶の中にある元の過去とは異なる分岐に入っている。そしてその分岐は君があの問題を解けなかったことで更に大きく離れ、より元の過去との差異が生まれ始めている……ということさ」


 ――……もっと簡単に言ってよ。話が長くてわかんない。


「つまりは元の過去と全く同じようになるとは限らない。むしろそっちの方が少ない、ということさ」


 ――ということは、悠一があの女の家に行くことも無くなったってこと!?


 私は色めき立つ。そうなればもうほとんどミッション達成だ。私があの問題に答えられなかったことでそうなるならさっきの屈辱なんてどうだっていい。すぐに水に流せる。


「残念ながらそれは僕にもわからないね。未来予知の能力があるわけじゃないんだ」


 ――は? 期待させるだけさせといてそれはないんじゃない?


「ごめんごめん。でもわからないってことは、君が思っているようになる可能性も、もちろんあるってことだよ」


 ――そうだけど……。っていうか悠一に言って先に予定を押さえておけばいいじゃん。


「それはいい考えだね。それこそが縁を編み直すということさ」


 ――うーん……悠一は結構夜遅くまで部活するからなぁ。待ってるのって結構辛いかもね。でも方向性は合ってる。部活終わりにご飯行こうみたいな感じで約束して、とにかく悠一をあの女の家から遠ざける。


 私はノートに考えをまとめる。クピドはノートに書かれた文字列と私とのテレパシーを総合して意図を汲み取っているらしく、ふんふん、と興味深そうに頷いていた。


 その時、六限終了を告げるチャイムが鳴り響いた。


「じゃあ今日はここまでー」


 時間ぴったりに授業が終わり、先生が教室を出ていくと、クラスメイト達はめいめいに動き始める。

 悠一は手早く荷物をまとめてさっさと教室から出て行こうとしている。うかうかしていられない。私は悠一の席に向かって小走りで近づく。


「ねぇ悠一」

「ん? どうした?」

「今日さ、部活終わるのって何時くらい?」

「えっと……多分七時ぐらいかな。何かあった?」

「いや、晩ご飯、一緒にどうかなって」


 悠一は怪訝そうな表情を見せる。


「晩ご飯? どこで? っていうか部活終わりで汗とかかいてるし蓮乃が行きたがるような所は多分無理だと思うんだけど……」


 それはそうだ。候補を考えるのを忘れていた。私はとにかく話を切られないように続ける。


「いや、どこでもいいよ。とにかく私、部活が終わる頃にまたここに来るから。その間に考えておくね。悠一が疲れてそういう気分じゃなかったら一緒に帰るだけでもいいから、ね?」

「う、うん。わかった。とりあえずまた連絡するよ」


 そう言って、悠一は足早に教室を去っていった。

 私は心の中でガッツポーズをする。無理やりだったけど、こういう強引なお願いが通るのも甘えたがりの彼女の特権だと思うことにする。とにかくこれで一歩前進だ。


「うまくいったみたいだね」


 いつの間にか右肩に立っていたらしいクピドが言う。私は周りに聞こえないよう独り言を話すようにぽつぽつと言葉を返す。


「とりあえずこれで様子見って感じだね」


 私は自分の鞄を持って三組へと足を運ぶ。できるだけイレギュラーが発生しないように今日はもう帰ってしまおう。

 私は一番の親友、三村光穂と一緒に下校することが多い。家が同じ方向で、二人とも自転車通学というのもあって去年からずっとそうしている。

 廊下は窓から気持ちのいい風が入ってくる。外は一足早く夏の訪れを思い出させるような熱気があり、今の季節にしては若干暑い。校舎内でも学ランやブレザーのジャケットは脱いでシャツ・ブラウスで過ごしている生徒の方が多い。


「あ、蓮乃」

「光穂、お疲れ」


 ちょうど三組の教室の中を覗こうとすると入り口から光穂が出てくる。

 この辺りはおおよそ元の過去と同じだ。この後、たわいもない話をしながら私たちは帰路に着く。

 そう思っていた。


「蓮乃」

「ん?」


 背後から名前を呼ばれる声がする。

 そこには顔も見たくないほど憎らしい、樋口藍花の姿があった。

 藍花は三組の教室の入り口にいる光穂に気づいて「あー……タイミング悪かったかなぁ」と呟く。


「何の用? 正直、アンタとはあまり話したい気分じゃないんだけど」

「ん? あれ、なんか当たり強くない?」


 藍花は面食らったような表情を浮かべると気まずそうに頬をかく。

 私はまさか「人の彼氏を寝取ったでしょうが!!」とは言えず、ふんと鼻を鳴らすだけに留めておく。

 すると藍花は何を納得したのか「あ、そっか」と漏らして私に頭を下げる。


「さっきの授業はごめんね。あんな言い方しちゃって。もっと言葉選ぶべきだった」

「…………まぁ、いいけど」


 私は色々な言葉や感情を飲み込んでそう言った。

 私の言いたいことを全てぶちまけると、「(本当に謝って欲しいのはそっちじゃないけど許してあげるよ。どのみち今の時点ではまだ悠一と何かあったわけじゃないから責めることはできないし。それに悠一のことに関しては正直謝ってこられたところで到底許すことなんてできないの。だから)まぁ、いいけど」となる。


「ありがと。それでね、ちょっと話があるから時間欲しいんだけど……貰えないかなあ」

「はぁ? 私、今から帰るところなんだけど。ね、光穂」

「私は別に待てるからどっちでもいい」


 光穂は私たち二人のことを全く気にせず、マイペースにスマホを触っている。全く興味が無さそうだ。

 それを見て藍花は畳み掛けるように言う。


「その、御影君のことについて、なんだけど」

「――――」


 無意識、私は息を呑んだ。

 それは私の記憶の中にある言葉と全く同じだった。

 こんがらがった配線が元に戻る、というよりは欠けていたパズルのピースが埋まる感じ。

 そうか。そういうことか。

 元々、私と藍花は明日の朝に一度話し合っている。悠一のことについて。

 そこでお互いに思っていることを言い合った。私と藍花のギスギスした関係も終わるはずだった。

 だけど結局その場では、お互いに腹を割って話した、なんてことはなくてむしろ大事なことは何も言っていなかった。表面的なことを話し合っただけだ。

 そして昼休み。あの屋上での出来事に繋がるはずだった。藍花は私の嫌悪に気づいていて、そして隠していた毒で見事に私を殺した。


「いいよ。聞かせて欲しい」


 私は気がつけばそう言っていた。本来なら明日の朝に聞くはずだった話の内容だが既に元の過去とは違うルートに入っている。こういうこともあるのだろう。そんなことよりも私は、これを機会に藍花の目論みを破ってやろうと思っていた。いくら本来とは違う道を進んでいるとは行っても、今ならまだ概ね同じことになるはず。実際に藍花は悠一のことについて私に話したいことがあると言っているのだから。

 だけど、より確実に同じ道を辿らせるために私は一つ、手を打つ。


「中庭でいい?」

「蓮乃の好きなところでいいよ」

「わかった。じゃあ光穂、ちょっとだけ待ってて。あ、でもあんまり遅かったら先に帰っててもいいよ」

「いいよ。私、明日の予習してるし。行ってきな」


 いつも通り感情の起伏がない平坦な声で光穂は言う。光穂の聡明さだったら私と藍花のややこしい関係にもある程度勘づいていてもおかしくはないけど、もしあえて不干渉、無関心を装ってくれているなら私としてはとてもありがたかった。


 私は光穂の申し出をありがたく受け取って、藍花を先導する。

中庭を指定したのは元々、そこで話し合っていたからだ。本来の状況により近づけておいた方が、本来通りの道を進む確率が高くなりそうな気がする。確証はないけどできる限りをしておいた方がいい。


 悠一の予定を押さえている以上、私の絶対的な有利は変わらない。そして何より私には完璧ではないものの、未来についての知識がある。この二つで私は必ず、悠一を守って見せる。


――アンタなんかに悠一を奪わせない。


 そんな決意を胸に、私は後ろからついてくる藍花へ押し殺した敵意を向けた。

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